M 様投稿作品






愛の深さは想いの深さ。

愛の強さは絆の強さ。

されど、想いが深ければ深いほど、絆が強ければ強いほど、

それが果たされなかった時の無念の濃さもまた然り。

無念は彷徨い、集い、形を成す。

悪夢という名の形を成す。

膨れた悪夢はあふれ出し、それは現実世界まで……










 Nightmare Town










その日の結城潤の目覚めは、いつも通りだった。

「ご主人様! 朝だよっ! 起きて起きて〜!」

ひなたの声がまどろみをむさぼる潤の耳朶を叩き、次いで、体全体が揺さぶられる。

「あ〜、もう朝か……」

うっすらと目を開ければ見慣れた天井とひなたの笑顔。

二、三度瞬きをしてぼやけた視界をクリアにする。

「早く起きて! もうご飯できてるよ!」

「ああ、わかったわかった」

ベッドの上で体を起こすと、キッチンから朝食を運んでくるとばりと美和の姿が見えた。

「おはよ、ご主人様」

「おはよう、お兄ちゃん」

「ああ、おはよ」

挨拶を返し、伸びをひとつ。

腰をぐりぐりねじって体をほぐす。

何気なく窓に目をやれば、窓の外にはうっすらとした曇天が広がっていた。

(晴れてはないけど、雨の心配はないかな)

潤はベッドを降りて食卓へ。

四人そろって「いただきます」をすれば、いつもの朝食風景が始まった。




朝食が終われば、四人はいつもの通り仕事に出かける。

いつもの道をいつもの通りに歩く。

人通りのない道。歩いているのは四人だけ。

他愛のない日常会話の中、潤はふと美和に話しかけた。

「美和、明日は講義あるんだろ?」

「あ、うん」

「じゃあ今日はほどほどで上がっとけ」

昨日は月末の棚卸ということもあって、仕事がかなり押してしまい、

終わった時には結構な時間になっていた。

なので美和も昨夜は潤の部屋に泊まったのだが、

それも半ば日常化しつつあるとはいえ、学生の本分は学業。おろそかにはできない。

「ありがとう」

とはにかみがちに礼を言う美和に、兄として当然だと言いたげな笑みを返す。

なんとなく兄妹の絆が深まった気がしないでもないその時、

とばりが周囲を見回しながら言った。

「なんだか、今日はやけに静かじゃない?」

「そうか? いつもこんなもんじゃ……」

言いかけ、しかし潤にも不安感がじわじわとこみ上げ始める。

確かに静か過ぎるのだ。

いくら人通りが少ないことが常の道とはいえ、

朝のこの時間、通勤中と思われるスーツ姿の男性とすれ違ったり、

車が幾台か通るくらいはあってもいいはずだ。

いや、冷静に考えてみれば、そうでない日のほうが珍しい。

では、何故今朝に限って?

疑問は沸けど、答えは出ようはずもない。

(気のせい、だよな……)

思うが口には出せず、潤はただ歩を進めた。

言いようのない不安を孕みながら四人は歩く。

その先に、不安を払う何かがあると信じて。




















残念ながら、不安はなお募ることになるのだが。




















ペットショップFRIENDS。

だんだんと人気も高まり、常連客も増え、毎日のように嬉しい悲鳴が飛び交うこの店。

いつもならもう開いているはずのシャッターが閉まったままだった。

まれに、早めに家を出てしまった時などは、一番に店に着くこともある。

だが今日はそんな時間ではない。

勤勉な他のスタッフが開けていてもおかしくないし、御堂が掃除をしていても不思議ではない。

だというのに、口を閉じたままのシャッターは店内に人の気配がないことを明確に示し、まるで潤たちの到着を拒むかのようだった。

不穏な気配を感じたまま、潤たちは店の脇の路地へ入る。

スタッフ専用の扉。

緊張感をたたえたまま、潤はノブを回した。

予想外に、ドアはあっさり開く。

店内は暗かったが、壁のスイッチを入れれば照明が点灯、店内を光で満たす。

ようやくの見慣れた光景に、四人に安堵が広がった。

街が静かなのも、シャッターが閉まっていたのもたまたまだ。と、偶然で片付けられようとしていた。

潤は事務室のドアを開ける。

と、途端に緊張感のかけらもない音が飛び出してきた。

「ぐお〜、ぐお〜」

奥のソファーで毛布にくるまり、御堂が寝ていた。

仕事が忙しくてどうしようもない時は、ここでこうして寝ていることも四人は知っている。

「おい御堂、起きろ。朝だぞ」

潤が御堂を揺り起こそうと試みるが、

「なんや〜、もう食べられへんて〜。ぐへへへへ……」

なんともわかりやすい寝言だけ返して寝返りを打った。

「起きろってば、おい!」

ぺしぺしと頬を叩く。が、御堂の睡眠は深いようだ。目覚めの気配はない。

どうしたものかと頭をかく潤をやんわりと押しのけて、とばりが前に出た。

「起きろって……」

すう、と息を吸い、背筋を伸ばす。

右手を高く上げ、指先だけを下に向けた。

数泊の間を置き、うっすらと閉じていた目をかっと見開くと、

「言ってんのよ!!」

伸びたバネが縮むようにとばりの全身が屈み、

細くしなやかな指先が御堂の腹部、鳩尾へと突き刺さった。

「ぐへぇあっ!?」

御堂の体がびくりと震え、奇妙な悲鳴が上がる。

とばりは指を御堂の腹から外すと、服の裾でぱっぱっと払い、

「もう朝よ。とっとと起きなさい」

言い放った。

しかし御堂から返事はない。

びくん、びくんと断続的に震え、口の端からは泡が漏れてきていた。

「お、おい、御堂、大丈夫か?」

潤が御堂の肩を揺する。と、

「殺す気かーー!」

鬼のような形相で叫びながら毛布を跳ね除け、今度こそ御堂は起きた。

「起きたとかそういう問題やないで! 死ぬかと思ったわ!」

普段のひょうひょうとしたおふざけキャラは鳴りを潜め、本気で訴えている。

目尻に浮かぶ涙が彼の真剣さを如実に示していた。

御堂は、今度は潤へとその顔を向け、

「お前はいつもこんな風に起こされてんのか!? いつか死ぬで!!」

「いや、俺は普通に起こしてもらってるが……」

「そんなことはどうでもいいのよ」

二人の会話をさえぎり、とばりが言う。

「それより、この時間になっても他に誰もいないんだけど」

後ろ、店へのドアを振り返った。

その向こうからは今だ、人の気配は感じられない。

「あ?」

御堂は壁にかけられていた時計を見る。

時刻はすでに九時半。開店まで後三十分だ。

「おかしいな。いつもなら相田さんは来てるはずやのに……」

御堂がつぶやくように言った。とその時、


ガシャァァァァァァァァンッ!!


甲高い破砕音が店のほうから響いてきた。

突然のことに驚き、目を丸くする一同。

数秒が経ち、余韻が収まると、

「いったい、なんや?」

御堂が先頭に立ち、五人は事務室から出た。

そこには異様な光景が広がっていた。

外からの鈍い光が店の表側を明るくしていた。

だが、決してシャッターが開けられたわけではない。

これもある意味開けたという言い方も出来るかもしれないが、

少なくとも正規の開け方ではない。

シャッターは、ぶち破るという力ずくの方法で開けられていた。

全面が内側へと歪み、ひしゃげ、悠々と人が通れるほどの大穴が口を開けている。

シャッターごとまとめて砕けたウインドウのガラス片が周囲に散らばっている。

付近の棚のいくつかは、品物を床にぶちまけて倒れていた。

しかし、あまりの事態に立ち尽くす五人に、更なる衝撃が待ち受けていた。

じゃり、とガラス片を踏みしめ、倒れた棚の陰から一人の人物が現れた。

その人物は五人を見ると、正面に立ち、薄く微笑む。

「あ?……え?」

誰かがかすれたような声を出した。

だがそれが誰か五人にはわからない。

あまりの混乱に自分が出したものかもわからなくなっていた。

それほどに理解しがたい人物が五人の前に立っていた。

「な、なんで……?」

これは潤の声だ。

潤は目の前にいる人物と、自分のすぐ隣に立つ者を交互に見る。

少し癖のある短い髪、ワンピースのように着たサマーセーター、少しだらしなく緩んだ長い靴下、

そして何より、犬耳っ子特有の耳と尻尾。

その姿はまさしくひなた。

差があるとすれば、今浮かべている表情くらいか。

潤の隣のひなたは驚きに目を丸くしているが、

正面に立つひなたは作り物じみた、能面のような薄気味悪い笑みを張り付かせているだけだった。

「え? なんで? ボクがもうひとりいる!?」

誰にともないひなたの問い。

答える者はなく、五人には戸惑いが広がるばかり。

唯一動いたのはもうひとりのひなた。

わずかに腰を落とすと、左手を掲げた。

その手には、反身の短剣が鈍く輝いていた。

どろりと、底のない沼のように濁った目が五人を捕らえる。

不気味な笑みが、なおいっそう歪めるように深くなった。

背筋に冷たいものを感じ、反射的にとばりが叫ぶ。

「逃げるわよ!!」

あまりの事態に動きを失っていた四人も、その声にはじかれたように走り出す。

陳列棚の間をすり抜け、裏口へ。

先頭を切るとばりが体当たりをするようにドアを開ける。

潤、ひなた、美和、御堂がそれに続く。

路地をかける五人の背後、ゆっくりとドアが閉まっていき、閉まりきる瞬間、


ガガァァァァァンッ!!


耳に痛いほどの音を発し、吹き飛んだ。

ドアをひしゃげさせ、ちょうつがいを引きちぎって、

文字通り体当たりでドアを開けたもうひとりのひなたが五人を追う。

五人は転げるように路地から裏の通りへ。

後を追い、もうひとりのひなたも途中にあった邪魔なゴミバケツを蹴飛ばし、

中身をぶちまけながら通りへと出る。

五人は懸命に走る。

が、もうひとりのひなたの地を這うような疾駆は速く、やがて……

「うおわっ!?」

鈍く輝く短剣の一閃が御堂の足を浅く薙いだ。

「御堂!?」

潤が立ち止まり、振り返る。

目に映るのはもんどりうって路上を転げる御堂の姿と、それに跳びかかるもうひとりのひなた。

御堂はとっさにもうひとりのひなたの両腕を掴むが、

その力は思いのほか強く、徐々に押されていく。

御堂は徐々に近づく刃先に冷や汗を垂らしながら目だけ動かし、

うろたえ、立ち尽くしたままの四人を見る。

四人の戸惑いの表情に、御堂は脂汗を浮かばせながらもにやりと笑った。

「お前ら! 俺のことは気にせず先に行け!」

気丈に叫ぶ。

それを聞き、潤ととばりは視線を合わせ、うなずき合った。

「わかった。後は任せる」

潤が言った。続いて、

「みどー、がんばってね!」

「骨は後で拾ってあげるわ」

「御堂さん、どうかご無事で!」

ひなた、とばり、美和もそれぞれ言葉を残し、四人は踵を返すと逃亡を再開した。

どんどんと小さくなっていく四人の背中を見ながら、御堂の目は点になる。

(あれ? なんでや? ここは『そんなこと言うなよ!』って助けに来てくれる場面やないんか?)

思っている間に四人は角を折れた。もう後姿すら見えない。

「お前らほんとに置いてくなーー!!」

取り残された男のむなしい叫びだけがこだました。










どこをどれだけどう走ったか、気づけば四人はいつも弁当を食べる公園に来ていた。

やはり人の気配どころか猫の子一匹歩いてもいない。

噴水だけが、絵の具で塗られた作り物のような灰色の空に向かって、

寂しそうに水を噴き出していた。

「はぁ、はぁ……ここまで、来れば……」

潤は手近なベンチに手を付き、ふらつく体を支えた。

続く三人も、息も絶え絶えに足を止める。

とばりが来た方を振り返って言った。

「いったい、あれは、なんなのよ……」

視界には誰も映らない。

だが、疲労を浮かべながらも鋭さのある視線は警戒心の高さをうかがわせた。

「わからん。だいたい、それ以外の状況もさっぱりだ。なんで他に人が誰もいないんだ?」

潤は周囲を見回す。

普段ならば散歩をしているおじいさんやおばあさんがいたり、

まだ幼稚園にも行っていないような小さな子供をつれたご婦人が井戸端会議をしていたりと、

何気ない中にも人の気配は絶えなかった。

はずなのだが、今は無人。

大人たちの会話を聞き続けていただろうベンチも、

子供たちの元気な声を聞き続けていただろう遊具たちも、

ただ静かに鎮座するだけだった。

「そんなのわからないわよ。あたしにも」

わずかないらだち混じりにとばりが答え、会話は途切れた。

無言。

しんと静まり返り、風の音も聞こえない。

本当にここが街中なのか疑問に思えるほど静かな空間。

不安をいっそうあおる静けさにたまらなくなったかのように、美和がぽつりとつぶやいた。

「御堂さん、大丈夫かな?」

もと来た方向、公園の入り口に目を向ける。

「どうにかなってる、と思いたいな。あれで結構タフなところも……」

答えながら、潤は美和と同じ方向に目を向けて、人影を捉えた。

追っ手かと思わず身構えるが、その姿が鮮明になると緊張感を和らげる。

その人影は御堂だった。

「あ! みどーだ!」

「無事だったみたいね」

「良かった」

ひなた、とばり、美和が喜びの声を上げる。

潤もまた、緊張に張ってしまっていた肩を弛緩させ、近づいてくる人物へと声をかけた。

「おーい、御堂。どうにか逃げられたみたい……」

そこまで言って、潤の言葉は再び途切れた。

そうさせた違和感。

こちらへと近づいてくる御堂の歩調が徐々に速くなっている。

まだ距離があるためはっきりとは見えないが、薄ら笑いを浮かべているように見える。

戦慄が駆け抜けるまでに、そう時間はかからない。

「こいつ……!!」

偽者かと叫ぶよりも早く、近づいてくる御堂の左手にそれは現れた。

片手で持つには重そうな幅広の両手剣。

「逃げろ!!」

しかし遅い。

武器を構えた御堂は、アスファルトで舗装された公園の道を砕きそうなほど力強い一歩を踏み出すと一気に加速した。

四人が逃走を始めるより早く、御堂は潤の目の前に到達。

両手剣が大上段に振り上げられる。

重量感のあるそれを防ぐ手立ては潤にはない。

(やられる!?)

勝ち誇った笑みを浮かべ、偽御堂が剣を振り下ろそうとした時、

「ご主人様っ!!」

ひなたが跳びだした。

「ひなた!!」

「ひなたちゃん!!」

とばりと美和の悲鳴をバックに、ひなたは偽御堂と潤の間に立ち、主をかばう。

それでも容赦はない。無情にも両手剣はひなたへと振り下ろされる。

ひなたは両手を交差させて頭上に掲げ、

どれだけの効果があるかはわからなくも、せめてもの防御をしようとして……

その右手がかすかに光った。

次の瞬間、


ギィィィィィィィィンッ!!


金属同士がぶつかる甲高い音が響いた。

重量に押され、体勢は沈み込みながらも、

ひなたの右手に現れた反身の短剣は確かに偽御堂の両手剣を防いでいた。

必殺と思われた攻撃を防がれ、偽御堂は不機嫌に顔を歪める。

だが、ひなたが両手剣を押し返せそうにない様子を見ると、

再びにやりと唇の端を持ち上げ、更なる力を腕に込めた。

ぐぐっと、さらにひなたが屈み込む。

「うう〜〜〜〜」

ひなたも懸命に堪えているが、体勢が悪く、しっかり踏ん張れないようだ。

「こっのぉ!」

とばりが一歩、偽御堂へと踏み込んだ。

「ひなたを放しなさい!!」

腰の回転を加え、真っ直ぐに放たれた右ストレート。

伸びるような正拳は確実に御堂の右頬をとらえた。

だが、次の瞬間とばりは息を飲む。

衝撃に首を傾け、しかし体は全く動かさない偽御堂が、

ぎょろりと眼球だけを動かしてとばりをにらみつけた。

渾身の攻撃が通じない不気味な相手に動きを失うとばりに、

偽御堂は邪魔をするなとばかりに右手の甲を叩き付けた。

したたかに腹を打たれ、とばりは背中から倒れこむ。

「とばり!」

「とばりちゃん!」

美和がとばりに駆け寄り、助け起こす。

少し辛そうにしているがさほどのダメージではなさそうだ。

その様子を見てほっとしながらも、潤の怒りのボルテージは上がっていく。

ひなたのピンチに加え、とばりへの攻撃。

大事な二人に危害を加えられ、主として、家族として、恋人として、

潤の心に怒りの炎が燃え上がっていく。

奥歯をぐっとかみ締め、鋭い眼差しが偽御堂へと注がれる。

そして、震える拳が振り上げられ……とその時、

「御堂のくせに……」

やんわりと美和を押しのけて立ち上がったとばりが、

先ほどよりもなお速く鋭く、御堂の間合いへと入った。

偽御堂が反応するよりも速く、とばりの右手が閃く。

「生意気よ!!」

いつの間に握られていたのか、とばりが持つ細身の長剣が御堂の腹部を貫通した。

根元付近まで深々と刺さった様は明らかに致命傷。

それを明示するかのように、

御堂の体からいくつかの光の粒が発したかと思うと体全体が光の粒へと変じて拡散し、

消えた。

「まったく、手こずらせてくれちゃって」

長剣を軽く振るい、さっと髪をかきあげる。

その振る舞いは、まるで優美な女剣士だ。

「大丈夫? ひなた」

とばりは空いている左手でひなたの手を引っ張った。

ひなたは立ち上がると、目を丸くしたまま素直な感想を述べる。

「とばりちゃん、すご〜い」

「そう?」

「うん、すごくかっこよかった〜」

「ふふ、ありがと」

笑顔に戻った二人の様子を視界に収めながら、潤は行き場を失った拳を力なく下げた。

(二人が無事だったんだ。よかったよかった)

と自分を慰めつつ、緊張を解く。

だが、和やかな雰囲気をかもし出しつつある場に、再び緊張が訪れる。

きっかけは美和の声。

「あ……あ……」

一点を見つめ、さえずるような小さな声を出している。

「どうした? 美和」

潤が問う。

その言葉に、ひなたととばりも美和へと目を向けた。

「あ、あれ……」

美和は震える指先を自らの視線の先へと向けた。

三人がゆっくりと指し示された方向へと首をめぐらせれば、

公園の植え込みに点在する木の隙間から、道幅いっぱいに行進する偽御堂の群れが見えた。

全く同じ顔、同じ姿が約数十。

ぎょっとしている間にも、偽御堂の群れは公園の入り口へと。

「さ、さすがにやばい、よな?」

「あんなの、相手にしてられないわよ!」

潤ととばりの言葉で対応が決定。

四人は全力で公園を後にした。

「はぁ……はぁ……」

街中や路地を縦横無尽に駆け回り、四人は息を切らせながら、

それでも投げ出すように足を前に出す。

いつの間にやらひなたの短剣ととばりの長剣は消えているが、

逃げる際には邪魔にならないのでむしろ好都合だ。

とばりは時折後ろをうかがいながら、町の道筋を頭に描く。

(あの角を曲がると、確か……)

今、この町に安全な場所があるとは思えない。

それでも外にいるよりは安全性はわずかながら増し、気も休まるだろう。

そう考えたとばりは、先頭をいく潤に言った。

「ご主人様! そこの角、曲がって!」

潤はちらりと振り返り、いぶかしげな表情を見せながらも素直に従う。

さほど広くない緩やかな坂道を降りると、突如視界が開けた。

「ここは……」

「いったんあそこに逃げ込みましょ!」

草原のように芝生が広がる土地の中、静かにたたずむ教会へと、四人は入っていった。









聖堂で短い休息を取り、息を整えると、四人は教会内の探索を始めた。

この奇妙な状況からいつ抜け出せるかわからない以上、拠点が必要となる。

教会が適した場所であるなら、そうしようと決めたのだ。

幸いにして冷蔵庫には充分な食材があり、寝室も問題なく使えそうだった。

「これならしばらく隠れていることもできそうだな」

「そうね」

潤に答えながら、とばりは、優秀なホテルマンにメイクされた直後のような、

きれいに整えられたベッドを軽くなで、ふと眼差しを寂しいものにした。

とばりの記憶の中では、この部屋はもっと乱雑であった。

いたずら盛りの子供たちが暴れ回り、

脱ぎっぱなしの服や出しっぱなしのおもちゃがそこかしこに散らばっていた。

何度注意しても聞く耳を持たず、ずいぶんと困らされていたのだが、

全く同じといっていいはずの部屋なのに、この部屋には形跡すら見いだせない。

今はそんなこと考えている場合ではないとわかっていながらも、

自分になついてくる子供たちの笑顔と笑い声が幾重にも頭に浮かんでいた。

「とばりちゃん、どうしたの?」

美和の声に、はっと我に返る。

気づけば潤もひなたも室内にはいなかった。どうやら先に出たようだ。

「なんでもないわ。行きましょ」

とばりは思い出を胸の内にしまうと、迷うことなく部屋を後にする。

ここにないなら、ある場所へと帰ればいい。

廊下を歩きながらとばりは誓う。

必ず帰ることを。










四人は聖堂へと戻ってきた。

もし襲われた時は広い場所のほうが対処しやすく、逃げ道も多いと踏んだからだ。

整然と並んだ長椅子に腰掛け、

潤は高い天井を見上げながらなんとなしにつぶやいた。

「さて、どうしたもんかな」

潤の後ろ、背もたれに逆から寄りかかり、軽く腕を組みながらとばりが答えた。

「どうもこうも、さっぱりわからないわよ」

潤はひなたと美和をちらりと見やる。

「ん〜」とうなりながらもあまり頭を動かしていなさそうなひなたと、

ただ困惑に眉を八の字にする美和が見えた。

「だよな……」

潤はもう一度つぶやき、小さなため息を吐く。

この空間がどのようなものかなど、ここにいる四人にはわかりようもない。

町並みだけは同じであり、親しい人物だけは同じであり、

しかし、何故か自分たちを狙う偽者が存在する世界。

まるで漫画かゲームのようだ。

となればどこかにラスボスがいるはずだ。

探し出して倒せば戻れるのだろうか。

取り留めのない思考だけが潤の頭を巡り、その滑稽さに自嘲の笑いが浮かぶ。

潤はもう一度ため息をつくと、ただぼんやりと天井を眺めた。

しんと静まり返る聖堂内。

普段ならばその静けさも、聖人の像に見守られし聖堂内をより荘厳な雰囲気に包むのだろうが、

今回ばかりはそうはいかない。

重苦しい沈黙は絶望感となって皆にのしかかる。

しばし時が流れ、


ぐ〜〜〜


間抜けとしか形容できそうにない音が響き、聖堂内の重苦しい空気は一掃された。

発信源に目を向ければ、

「ボク、お腹すいちゃったよ〜」

ひなたが指をくわえていた。

「やれやれ、こんな時に」

潤は苦笑いを浮かべた。

「いいんじゃないの。食べ物はあるんだし。腹が減っては戦はできないっていうしね」

難しい顔をして考え込んでいたとばりも表情を柔らかくする。

「あはは、それじゃ何か作るね」

美和にも笑顔が戻った。

「わ〜い♪」

無邪気に喜ぶひなたに、潤は思う。

これも才能の一種だろうか。

人を笑顔にする才能。

ひなたらしいなと潤はひとり小さく笑った。

「あたしたちも行きましょ」

「ああ、そうだな」

食堂へと向かうために聖堂を出ようとする美和とひなた。

潤はとばりとそれを追おうとして、聖堂内がかすかに陰ったように感じ、辺りを見回した。

特に変化は見えない。

突然立ち止まった潤に、とばりはいぶかしげに振り向く。

「どうしたの? ご主人様」

「いや、気のせいだったか……」

と、そこで潤は、床の上を照らすぼんやりとした光の中に揺らめく何かを見つけた。

嫌な予感にとらわれ、顔を上げる。

視線の先は聖堂正面のステンドグラス。

聖人を見下ろす位置にある、女神の絵をかたどった色鮮やかな芸術作品。

その向こうに、かすかに動く何かがあった。

人の存在しない空間。

それどころか他の動物の気配もない。

そんな世界で、十メートルほどの高さにあるステンドグラス越しに、何が動くというのか。

最悪の予感が潤の背を冷たくすると同時、

ステンドグラスの破砕音が聖堂内に響き渡った。

色とりどりのガラス片を撒き散らしながら飛び込んできたのは、

直径一メートルほどの青白い円盤が四つ。

淡く発光しているようで輪郭のはっきりしないそれは、

ぎゅんぎゅんと天井付近を縦横無尽に飛び交ったかと思うと、

潤たちの頭上目掛けてまっ逆さまに落下した。

「くっ!」

「な、なによ!?」

潤ととばりは驚愕に固まりかけていた足を強引に動かし、回避行動を取った。

だが、廊下へと続く扉の前にいた美和は、目を白黒させるばかりで動けない。

「危ない!!」

近くにいたひなたが叫び、跳びついた。

「きゃあっ!!」

背中から床に倒れる。

あわやというところ、美和を狙っていた円盤はその足元の床に突き刺さった。

「美和ちゃん! 大丈夫!?」

「う、うん。ありがとう、ひなたちゃん」

「えへへ、どういたしまして」

二人の無事を確認し、潤は素早くステンドグラスを振り返った。

五つ目の円盤の上に立った人影が、悠然と聖堂内へと侵入してくる。

女神を破壊し、足元の聖者を見下すように入ってきたのは、美和。

本物はひなたに助け起こされていて、

顔に張り付いているのが作り物めいたのっぺりとした笑みとくれば、

偽者であることは容易にわかる。

四人を見下ろし、偽美和は勝利を確信したかのように唇の弧を深くした。

呼応するかのように、床に刺さった四つの円盤が再び飛び上がり、

宙を二、三回りしてから再度潤たちへと襲い掛かる。

「ご主人様! 下がって!」

とばりは剣を具現化し、潤に襲い掛かろうとした円盤をはじいた。

「えーい! やあっ!」

ひなたも短剣を振り回し、自身と美和を守る。

しかしとばりとひなた、一人につき二枚の円盤という状況は一対二の戦闘と同義。

二人とも防御するだけで精一杯となり、攻撃に転じることができない。

それをわかってか、偽美和は余裕の表情で円盤を操っている。

視界の隅でその様子を見て、とばりは奥歯を噛んだ。

偽御堂の時もそうだったが、やられっぱなしのままで終わる彼女ではない。

頭脳をフル回転させ、反撃の糸口を探る。

敵は高い位置にいる。

相手の武器は自由に動く飛び道具が四つ。

対して、こちらの手数は二人。どちらも近接武器しか所有していない。

誰が見ても圧倒的に不利な状況。

それでもとばりの頭には、ひとつの案が浮かんだ。

確証はない。不安要素のほうが多い、なんともぎりぎりの作戦。

しかし選り好みしている余裕もなければ四の五の言っている時間もない。

やらねばやられる。

意を決し、とばりは駆け出した。

行く手を阻むように正面から飛来する円盤を大きくはじき、

そのままぐるりと体を回して遠心力を加えると、

「はっ!」

とばりは偽美和めがけて剣を投げ放った。

鋭い切っ先は空を貫いて進むが、充分に距離があるために、敵は悠々と回避する。

不意をついたのは小さなきらめき。

とばりは剣を投げた後、

再び走りながら拾ったステンドグラスの欠片を手裏剣のように投げつけたのだ。

剣に意識をやっていた敵はその欠片を避けきれない。

下方からの思わぬ飛来物は、偽美和のわき腹を浅く裂いた。

体勢がわずかに崩れる。

その隙に、とばりは他の欠片を踏みしめながらさらに加速し、跳躍した。

一段高い位置に据えられている教壇を台に、二度目の跳躍。

更に、聖人の像の肩を蹴って三度目の跳躍。

勝てたら後でお祈りするから、と心の中だけの侘びを残し、

とばりの体は宙高くへと跳びあがった。

遥か遠くに感じた偽美和の笑みが崩れているのが見て取れる。

反し、とばりはにっと笑うと、再度具現化した剣を振り上げた。

「てぇぇぇぇぇぇいっ!」

気合いと共に振り下ろされる。

偽美和は回避しようと後退する。

刃は偽美和の額へと至ろうとし、しかし数ミリの間を残して空を切った。

作戦失敗か。否、そうではない。

その証拠に、とばりの眼差しは強さを失ってはいない。

その視線は剣の軌道の先へと注がれている。

偽美和の足元。五つ目の円盤。最初から狙いはそれ。

偽美和へと到達できなかったとばりの剣は、円盤を激しく叩いた。

上からの強い衝撃に、円盤は不規則に回転して床へと突き立つ。

足場を失った偽美和は、重力に引かれ下へ。

好機。だがとばり自身も落下中であるために攻撃はできない。

代わりとばかりに叫ぶ。

「ひなた!!」

名を呼ばれ、とばりの奇襲に味方でありながら目を丸くしていたひなたははっと我に返った。

「とどめ!!」

続く言葉で自分の役割を認識。敵をキッと見据えると、一気に駆け出した。

「やあああああああああああーーーーーーっ!!」

気合いの声を聖堂内に大きく反響させ、

ひなたは充分に射程圏内に入った偽美和へと飛び掛った。

短剣が大きく振りかぶった短剣が、正面から偽美和へと振り下ろされる。

今度は後ろには下がれない。

反身の刃は袈裟切りに偽美和の首筋へと吸い込まれるように……

勝利を確信するとばりの眼前で、その事態は起こった。

ひなたの短剣は確かに偽美和を捕らえた。

しかし食い込んだのは偽美和の左腕。

半ばまで切り裂かれながらも、それ以上は許さない。

二人の驚愕に対し、偽美和は再び嫌らしい笑みを浮かべた。

不測の事態に止まっていた四つの円盤が再び動き出す。

ひゅんと空気を切り裂き、邪魔者を排除しようと宙を舞う。

「ひなたっ!!」

とばりの叫び。今度は危機を知らせる悲痛さを伴っている。

「わああっ!!」

それに反応し、ひなたは強引に体をひねると、偽美和から離れて床を転がった。

一拍の間もなく、ひなたがいた位置を円盤が薙ぐ。

見ていた三人は安堵のため息。しかし、状況は非常に良くない方向へと動いていた。

痛みなど感じていないのか、偽美和が左腕の短剣を無造作に引き抜く。

傷口はぱっくりと開いているにもかかわらず、血は一滴も出ない。

偽美和が投げ捨てると、短剣は音もなく消えた。

そして、自由を取り戻した五枚の円盤を、一度自分の周囲に集め、

ゆるゆると宙を漂わせたかと思うと、一気に開放した。

五枚の円盤は速度を増し、教会の柱といわず壁といわず突き刺さり、砕きながら四人へと襲い掛かる。

破られた天井は瓦礫を落とし、倒れる柱も潤たちの行動を阻む。

すでに攻撃に転じる余裕など微塵もない。

円盤の直接攻撃以外からも逃げることで必死だ。

「外だ! 外へ出ろ!」

潤が叫んだ。

「天井が完全に落ちたら生き埋めになる! そうなったら終わりだ!」

言いながら入り口の扉へと走る。

倒れた柱を踏み台に瓦礫を跳び越え、襲い来る円盤をどうにか回避しつつ、

正面の大扉へと全力疾走する。

とばり、ひなた、美和も同様に、不安定さを増す足場によろけながらも、

指示通り外に出ようと足を動かした。

扉まで後三メートルというところ。

勢いのままに扉を開け放とうと身構える潤の背を狙い、円盤が降下してきた。

「ご主人様!!」

とばりの声にはっとして、潤は体を投げ出すように横に跳んだ。

円盤は潤の腕をかすめ、扉へと突っ込み、ぶち破った。

ど真ん中に大きな穴を開け、扉はゆっくりと外へと開いていく。

これ幸いと潤は外へ飛び出した。

芝生の上を数メートル進み、急いで振り返る。

とばり、ひなた、美和の順に外へと飛び出してきて……

数秒後、教会は地響きを立てて崩れ去った。

四人は惚けたように、無残な瓦礫の山と成り果てた教会を眺めた。

からからと小さな瓦礫がこぼれ落ちる以外、何かが動く気配はない。

終わったのかと誰もが思った瞬間、瓦礫の真ん中から何かが飛び出した。

天高く舞い上がったのは四枚の円盤。

そして、そこから抜け出してきたのは、

衣服がぼろぼろになり、小さな瓦礫の欠片にまみれた偽美和の姿。

折れているのか、右腕はだらりと下がり、足は上体を支えるのがやっとの様子だ。

よく見れば、顔面の右半分がつぶれている。

それでも不気味な笑みを浮かべる偽美和の凄惨な姿に、四人は圧倒される。

扉から先に外へ出ていた五枚目がどこぞから飛来すれば、

偽美和の瞳がぎらりと怪しく輝いた。

このままではやられる。できるなら逃げたほうが……

そう思い、潤が逃走経路を確認するべく道へと振り返ると、

「なっ!?」

あまりの事態に言葉を失った。

潤の驚きの声に、他の三人も同じ方向に目をやり、

「えええっ!?」

「こ、こんなことって……」

「あ……あああ……」

やはり同様に、驚愕に立ち尽くす。

四人が見たものは、ともすれば瓦礫から這い出た偽美和よりもなお絶望感を味わわせる光景。

付近の路地からそれぞれ、

不気味な笑顔を貼り付けたひなた、

不気味な笑顔を貼り付けたとばり、

不気味な笑顔を貼り付けた御堂が、

それぞれに数十人規模の隊列を作り、こちらへと向かってきていた。

手に手に武器を持ち、しかし功を焦る様子もなく整然と。

前門の虎に後門の狼とはまさにこのこと。

このまま包囲されてしまえば、すぐさま潰されることは明らかだ。

とはいえ、ならばどうするというのか。

見渡しのいい地形ゆえに、下手に逃げようものなら円盤が背後から襲ってくる。

更に、あの数が本気で追撃に入れば、

すでにかなり消耗している今の四人などすぐに追いつかれるだろう。

ただただ絶望感に打ちひしがれ、立ち尽くす四人。

「ご、ご主人、様ぁ……」

ひなたは震える瞳で潤の顔をを見上げた。

「こんな……こんな訳わかんないところで……」

とばりは悔しげに拳を震わせている。

(俺は、俺はみんなを守ることすらできないのか!)

潤はぎりりと奥歯を噛み締めた。その表情には悔しさがありありと浮かんでいる。

「嫌……」

蚊の鳴くような声で美和がつぶやいた。

「もう、嫌……」

身を縮こまらせ、両手で頭を抱え、瞳には涙をため、

これまで溜め込んできた感情を爆発させた。

「嫌ぁぁぁぁぁぁぁァァァァァァァーーーーーーーー!!」

かれんばかりの声を発すると同時、美和の周囲の空間がかすかにぶれた。

陽炎のような揺らめきは淡く発光し、形を成す。

形は円盤。数は五つ。

偽美和が操っていたのと同じものだ。

冷静さを失っているためか、

美和の円盤はかくかくとしたひどく不規則な軌道で偽者集団へと突っ込んで行く。

三つの集団の先頭を歩いていたものが携行していた武器を掲げ、迎撃、防御態勢をとる。が。

どれほどの力を秘めているのか、美和の円盤は敵の武器など紙も同然とばかりに砕き、

集団を丸ごと貫いていく。

三つの集団は見る間に数を減らし、まさにあっという間にひとり残さず消え失せた。

呆然と事態を見守る三人。

対し、瓦礫の山の上に立つ偽美和は冷静だった。

五つの円盤を繰り、現在一番危険な美和へと集中攻撃を開始する。

だが、集団を殲滅した美和の円盤は空を裂いて戻り来ると、

美和へと迫ろうとした偽美和の円盤をも粉砕し、

そのまま本体へと食らいついた。

回避も防御もままならない満身創痍の偽美和は、

高速の五連撃を耐えられるはずもなく、溶けるように虚空へと消えた。

全ての敵を屠ると、円盤は音もなく消える。

誰も何も言わない中、美和だけが荒い息をつき、ふらりと体を揺らすと、

どさ、と、芝生の上にその身を横たえた。

「み、美和!?」

潤が駆け寄る。

少々息が荒く、鼓動も速いが、顔色は悪くない。

「気を失ってるだけみたいね」

横から様子を見ていたとばりが言った。

「あたしやひなたの武器と違って美和のは特殊だから、余計に疲れたのかも」

「それだけならいいんだけどな」

潤は不安そうに美和を見る。

自分を想ってくれる大切な妹であり、

ましてや普段はおとなしく、争いごとに不向きな美和がこれだけのことをやってのけたのだ、

心配もひとしおだろう。

「どっちにせよ、早く移動したほうがいいわね。あたしたちの居場所はばれちゃったし、こんな場所じゃろくに休めないし」

とばりは瓦礫の山を振り返る。

そこにはもう慎ましやかながらも神を崇める場にふさわしい荘厳さをまとった建物はない。

ただ無為な塊と化した残骸がむなしく横たわっているだけだった。

「でも、どこに行くの?」

ひなたが問う。

少し考え、潤が答えた。

「後は俺の部屋くらいか、落ち着ける場所ってのは」

「そうね。あまり広くないから敵が来た時対処しづらいかもしれないけど、この際仕方ないわ」

とばりの言葉に、潤はあまり広くなくて悪かったなと思うが、

実際あまり広くないので口には出さないでおく。

「それじゃ、さっさと移動するか」

潤は気を失った美和を背負うと歩き出した。

とばり、ひなたもそれに続く。

敵襲に備えて気を配りながら歩く家路の途中、潤はふと思った。

(ずいぶんと軽いよな)

二人がまだ幼い頃、美和が転んで膝をすりむいて泣き止まない時に、おぶって帰ったことがあった

その時は感じなかったが、今は良くわかる。

ペットショップで運ぶ重い荷物よりもよほど軽く感じる。

(こんななりで一生懸命頑張ってんだな)

仕事はもちろん朝食や昼の弁当、休日には洗濯や掃除まで手伝ってくれたりもする。

本人は妹だからと言っているし、潤もまた、美和がそれでいいならと気にせずに来たが、

何か礼でもしないといけないかと思い始めていた。

(ありがとな)

まずは心ばかりと、文字通り心だけの礼を述べる。と、

「んん……」

まるで恥ずかしがっているかのように、計ったようなタイミングで美和がもぞもぞと動いた。

そのせいで姿勢が崩れ、

(おっとと)

潤は慌てて美和を背負い直した。

(やれやれ)

まあたまにはいいかと思う。

が、しかし、その動きで潤は気づいてしまった。

あの頃にはなかった感触が背中に当たっていることを。

柔らかな二つのふくらみが潤の背中を圧迫していた。

(おいおい、美和は妹だぞ)

自分に言い聞かすが、

いつぞや御堂にそそのかされて三人の着替えをのぞいてしまった時のことが脳裏に浮かんでくる。

いつの間にか成長していた妹の姿が段々と鮮明に……

「ゴホンッ!」

わざとらしい咳払いをして危険な思い出に歯止めをかけようと試みる。

「どしたの?」

とばりが聞いてくるが、まさか実の妹に欲情しかけていたなどと言えるはずもなく、

「いや、なんでもない」

と仏頂面で返すのが精一杯だった。










そよとも風の吹かない灰色の空の下、生活の後が微塵も見えない住宅地を抜け、

潤のマンションまで後もうちょっとという曲がり角を曲がろうとして、

見知った人物とばったり出くわした。

「おわ!? お前ら、こんなとこにいたんか!」

「御堂!?」

偽ひなたにつかまったはずの御堂がそこにいた。

「また偽者!?」

とばりが右手から剣を取り出そうとして、

「待て待て! 俺は本物やで!」

御堂は慌てて手を振り、自分が偽者でないことを主張した。

「本物?」

とばりは疑念に満ちた視線で御堂を射抜く。

その瞳には、もし偽者であったら即座に剣で貫く意志が見える。

それを理解し、御堂は必死にアピールする。

「そ、そうや。ほれ、見てみい。どこからどう見てもかっこよくて男前の御堂拓也その人やんか」

言いながら、妙なポーズを取る。

その様子を眺めながら、とばりは右手を下ろし、警戒を解いた。

「そうね。そんなかっこをかっこいいなんて言えるのは御堂くらいよね」

「そうだな」

潤も同意する。ひなたは良くわかっていないようで、首をかしげていた。

「お前ら……」

御堂ははらはらと涙をこぼした。

わかってもらえて良かったというより、ぼろくそに言われたことの悲しみの割合のほうが多そうだ。

もちろんそんなことは気にせずに会話は続く。

「てことは、逃げ出してきたのか?」

「ああ、あんな気持ち悪い連中のとこなんていてられるか」

「そうか。無事で何よりだ」

一応友達であるので潤は安心する。が、とばりは容赦がなかった。

「そんなことより速く行きましょ。こんなとこにいたら、またいつ襲われるかわかったもんじゃないわ」

そう言うと、ひとりでさっさと歩を進めた。

「そんなこと……俺って、そんなこと程度の価値しかないんか……」

いつものことではあるが御堂は悲しみにくれ、潤は、

「ほら、さっさと行こうぜ」

とばりの後に続き、ひなたもそれに従う。

「チクショーーー!!」

御堂の悲しみの深さを如実に表す高き慟哭。しかしそれも、

「うるさいわね! 見つかったらどうすんのよ!」

「はい! すみませんでしたぁ!」

とばりに一喝され、素直に謝る。

後はおとなしくついていくのみだった。

だが三人は気づかない。

背後を歩くものが、どんな顔をしているかを。










マンションに到着した。

朝出た時となんら変わらぬ姿で五人を迎える。

エレベーターはいざという時危険であるというとばりの意見を尊重し、階段で潤の部屋へ。

鍵を開け、中に入る、

変化は見られないが、一応誰かが忍び込めそうな箇所は調べ、敵がいないことを確認、

ようやく一息つく。

「ふう、やれやれ」

ベッドに腰掛け、潤は大きく息を吐いた。

「少しは休めるといいんだけどな」

ちらりと、ベッドの上ですやすやと寝息を立てる美和を見る。

この様子ならもう心配はいらないだろう。

「そうね。あんまり激しい戦いが続いちゃ、体が持たないわ」

言いながら、とばりは大き目のクッションに体を預ける。

ひなたはカーペットの上にぺたりと座り、切なげな声を出した。

「ね〜ね〜、お腹すいたよ〜」

指をくわえておねだりをするひなたに、とばりはぞんざいに答えた。

「冷蔵庫に何か入ってるでしょ。適当に食べてなさい」

「は〜い」

ひなたは素直に返事をして、とたとたとキッチンへと歩いて行った。

普段ならば一緒に何か作るくらいはしただろうが、ここは普通ではない空間だ。

一刻も早く体力を回復し、温存しておきたい。

少し冷たい言い方だったかなとも思うが、仕方のないことだ。

「でも、いつまでもここにいられるかわからないし、どうしましょうか?」

「そうだな……と、そうだ。御堂がいるんだから、敵の居場所とかも知ってるんじゃ」

潤は室内を見回した。

ベランダへと続くガラス戸の向こうに、御堂の後姿が見える。

ベッドから立ち上がり、近づく。

「御堂、何やって……」

それ以上は言葉が続かない。

ベランダの下の光景が目に映ってしまったからだ。

マンションの入り口に、数十とも数百ともつかぬ数の御堂が殺到していた。

「お前!」

がっと肩を掴み、力ずくでこちらを向かせる。

例の笑みが張り付いていた。

愕然とする。

偽者はこれまでほとんど感情を見せなかった。

だからこそ、自然な振る舞いをしていた御堂を本物だと信じたのだが、それが覆された。

「このっ!」

逆上した潤は偽者とわかった御堂に掴みかかった。

しかし力を入れすぎたか、偽御堂はベランダの手すりに腰を打ちつけ、

そのまま下へとまっ逆さまに落ち、群れの中へと吸収された。

「ご主人様!」

様子を見ていたとばりが立ち上がり、駆け寄ってくる。

そして、外の様子を見て顔をしかめた。

「くそっ! このままじゃ!」

苦虫を噛み潰したように表情を歪めて悪態をつく潤を置いて、

とばりは素早く踵を返した。

足早にキッチンへと入ると、

今まさにチンしたばかりの肉まんにかぶりつこうとしていたひなたに告げる。

「ひなた! 敵よ!」

「ふえ? えええ!?」

一口目を阻まれ、ひなたはなんとも悲しい悲鳴を上げた。

しかしとばりはそれを無視。

「迎え撃つわ。ここの通路は狭いから、数で負けてても囲まれずに正面から戦える」

さっさと玄関から通路へと出る。

その姿を見て、ひなたはしばし逡巡した後、

「えいっ!」

思い切って肉まんを丸ごと口の中に放り込んだ。

おいしさ以上に広がる熱さを根性で我慢して租借し、

水道からコップに水を汲むと一気に流し込んだ。

「ごちそうさま!」

ちゃんと挨拶をし、手早くコップを洗うと、とばりを追って通路へ。

すでにとばりは剣を抜いて戦闘体勢になっていた。

ひなたも短剣を取り出し、戦いに備える。

潤は二人から一歩引いたところで、

敵が来るだろう階段とエレベーターがあるホールの方向に目を向けていた。

緊張感が場を支配する。

あれほどの数の敵、果たして勝てるのだろうか。

疑問は尽きねども、もはや退路のない今、やるしか道はない。

いつ現れてもいいように、油断なく構える二人。

だが、待てども待てども一向に現れる気配がない。

ベランダから見た時には、すでに勢いよく中へと入ってきていた。

最初のひとりが現れるのに、階段でも一分とかからないはず。

だというのに、現れるどころか足音すら聞こえない。

三人は顔を見合わせ、いつ敵が現れてもいいようにそろそろと通路を進む。

エレベーターホールまで進み、様子を伺うと、階段から何やら物音が聞こえてきた。

角の壁に背を着け、顔だけ出してそっと覗くと、そこには想像を絶する光景が広がっていた。

「うわああああああああ!!」

潤が叫ぶのも当たり前。

何故なら、さほど広くはない階段に、幾人もの偽御堂がぎゅうぎゅう詰めに押し込まれていたのだ。

何をどうすればこれほど絡まれるのか、頭やら足やら腕やらがうごめき、

まるで一個の奇怪な生物のよう。

これでは確かに動けようはずもない。

ではエレベーターはというと、


チン


ちょうど一台のエレベーターが到着した。

とばりとひなたは一応身構えておくが、

扉が開き、どちゃっと出てきたのは、すでにグロッキー状態の偽御堂たち。

どうやら限界ぎりぎりまで詰め込んで、中で圧迫されて戦闘不能状態になったようだ。

どれもこれもぐったりと手足を投げ出し、動き出す気配はない。

ひなたが短剣の先で恐る恐るつんつん突付いてみるが、反応は一向に見られなかった。

「拍子抜けにも程があるわ」

とばりは呆れ果てながら言った。

潤も呆れ混じりに苦笑を浮かべたが、やがて表情を安堵させる。

「だけど、今回は本当にラッキーだったな。真っ向勝負だったら、さすがにやばかったろ?」

「まあ、ね」

不本意ながらもとばりは認めた。

事実、あのまま予想通りの事態になっていたら、敗北は免れなかっただろう。

結果オーライではあるが、危機は去った。

こちらの居場所が筒抜けであるのは由々しき事態であるが、

今回はしのげた、かに思えたが……


ガシャン!


大きな音が聞こえた。

方向は潤の部屋。

しまった!

思う間もなく三人は駆け出した。

部屋に飛び込むと、

そこには完全に破壊されたガラス戸と、円盤に乗せられた眠ったままの美和の姿。

そして、それを見せつけるようにニヤけた笑みを浮かべる偽美和。

「美和ちゃん!」

「返しなさい!」

二人は間合いを詰めようとするが、円盤がそれを阻んだ。

偽美和は二人を足止めすると、余裕の表情でベランダから外へ。

「美和!!」

声の限り呼ぶが、美和は目覚めない。

そのまま偽美和の手により、美和はどこかへと連れ去られた。

「くそっ!!」

潤は踵を返し、玄関へと駆け出した。

「「ご主人様!」」

異口同音に発し、とばりとひなたが後を追う。

エレベーターホールまで来て、階段が使えないことを思い出す。

幸いエレベーターは二つあり、片方はまだ生きているようだ。

潤は焦ってボタンを連打する。

無論そんなことをしてもエレベーターの速さは変わらない。

表示はゆるゆると変化し、扉内部の動きを伝える。

潤はいつもより何倍も時間がかかったような気分で、

エレベーターの扉が開く様を見つめた。

そして、その内部にひとりの人物が立っていることに気づいてとっさに飛びのく。

長剣で潤の首を狙ったのはとばり。

本物とはずっと一緒にいたのでこれも偽者だろう。

「まったく、次から次へと」

とばりはいらだち混じりに偽者の自分に剣を向けた。

「いい加減にしなさいよ!」

とばり対偽とばりの戦いが始まった。










「もう、余計な時間食っちゃった!」

ぶちきれたとばりが単独速攻で偽とばりを撃破するも、

マンションを出る頃にはすでに偽美和と美和の姿はいずこかへと消えていた。

「美和ーー!!」

「美和ちゃーーーん!! どこーーーー!?」

この際敵に居場所を知られるのもやむなしと、思い切って声を出して捜索に当たる。

しかし、住宅地を回れど商店街を回れど駅前を回れど、本物の姿も偽者の姿も見当たらない。

いつしか歓楽街を過ぎ、隣町への境目まで……と、そこで、

「美和ーーーー!! 美ぶぅわっ!!」

潤が道の真ん中で何かにぶつかり、足を止めた。

「な、なんだ?」

したたかにぶつけた顔面を押さえ、前を見る。

足元は道が続き、両側は様々な店や建物がずらっと並んでいる。

どう見ても普通の道だ。

しかし手を前に出してみれば、ある箇所から先には見えない壁のよなものがあり、

それ以上は進めなくなっていた。

「なんだ、これ?」

硬すぎず柔らかすぎない不思議な感触の壁。

それは横に移動しても存在し、道全体を塞いでいるようだった。

「くそ、なんだってんだ」

手の平でぐっと押したり拳を叩きつけたりする潤。

「わ〜〜、何これ〜〜」

ひなたは好奇心に目を輝かせ、ベタベタと触りまくっている。

とばりはというと、二人の様子を見ながら何やら考えていた。

しばらくして、

「ご主人様」

「なんだ?」

とばりの声に、潤は振り返る。

「隣の道、いい?」

「隣の?」

何をやっても進めそうもないのは充分に理解できた。

仕方ないのでとばりの言うとおり、ひとつ隣の道へと移動する。

そこでも、やはり同様の見えない壁が、町の境目を区切っていた。

「やっぱり」

とばりは自分でも壁を触りながら言った。

「この妙な空間は、ここで途切れているってことね」

「途切れてる?」

「そう。ここを境目に、隔離された空間なのよ」

とばりは腕を組み、思考を再開する。

「てことは、この空間はやっぱり誰かが作ったものだと思うんだけど。じゃないと、偽者がわんさか出てきたり、へんな能力が使えたり、見えない壁があったりなんて、現実的じゃないもの」

そう言ってから、ため息をひとつ吐いて補足を付け加える。

「ついでに言うなら、空間を作る、なんて発想自体が現実的じゃないんだけどね。でもそうじゃないと説明できないし」

自分の考えに呆れながらの物言い。

だが潤にはそんなことはどうでもよかった。それよりも重要なことを聞く。

「いったい、誰が?」

「残念だけど、思いつかないわね」

とばりは軽く肩をすくめた。

「だけど、この町を作ったからには、ここと関係が深い人物だとは思うんだけど」

この町と関係が深い人物。

潤は気づく、

ならば、自分たちとも関係が深い人物ではないだろうか、と。

この空間にいるのは、潤、ひなた、とばり、美和、御堂の五人。

選別されて放り込まれたというのなら、充分にありえる考えだ。

この町の中で、この五人が関係し、まだ行っていない場所といえば……

自然と口をついて出た。

「学校……?」

つぶやきとも取れるその小さな声を耳ざとく聞き取り、とばりが反応した。

「学校って、ご主人様がトリマーになるために通ってた?」

「ああ、美和はあまり関係ないし、とばりも一度案内しただけだけど、もしかしたら……」

「行ってみましょ」

「ああ」

潤はうなずいた。

少しでも可能性があるなら探ってみる価値はある。

だが潤の心に一抹の不安が残った。

嫌な予感とも言うべき考え。

外れて欲しいとさえ思う。

だが、思えば思うほど、疑念はより強くなっていく。

ぐっと唇を噛み、疑念を払うよう努めながら、潤は歩く。

道中、敵は現れず、やがて、見慣れた建物が見えてきた。

潤と御堂の母校。

楽しかった思い出と、悲しい記憶の残る場所。

待ち受けているものは、果たして……










建物に入る。

耳に痛いほどしんと静まり返り、誰かがいる気配はない。

潤は迷わず歩を進める。縁の深いあの場所へと。

廊下を歩き、階段を上る。

久しく来ていなくとも、忘れようのない道順だ。

そして、最後の角を曲がると……

「おはようございます、ご主人様」

見慣れた光景、見慣れた人物、聞きなれた声に、潤の背筋は凍りついた。

「なん、で……?」

かすれた、声にならない声が潤の口から漏れる。

代弁するかのように、ひなたが驚きの声を上げた。

「さちおねえちゃん!?」

その言葉の示すとおり、三人の目の前には、間違いなく『さち』がいた。

ウェーブのかかった肩口ほどの髪、透けるような白い肌、

何より、たおやかな笑顔はまさしくさちのそれ。

「ひなたちゃん、大きくなったわね」

「おねえちゃん……さちおねえちゃん!」

にっこりと笑むさちに思わず駆け寄ろうとするひなた。

それをとどめたのは潤の腕。

「ふえ? ご主人様?」

震える腕に制止され、ひなたは疑問の眼差しを潤へと向ける。

潤は顔をうつむかせ、苦しげに表情を歪めていた。

やがて、絞り出すような声で言った。

「お前は、本当にさちなのか?」

さちは穏やかな口調で答える。

「はい、本当にわたしです」

聞きなれた声、二度と聞くことはできないと思っていた声は、

ただそれだけで潤の心を揺さぶる。

それをぐっと堪え、潤は続けた。

「だけど、だけどお前は……」

潤は言葉を詰まらせた。それ以上は言いたくないと表情が如実に物語っている。

知ってか知らずか、さちが後を続ける。

「はい、死にました」

淡々とした、事実を告げるだけの口調。

それでも潤の体は総毛立つ。

永久に封印したいとさえ思えるあの日が脳裏によみがえる。

ぎゅっと拳を握り記憶を押し込めようとする潤に、さちは淡々と続ける。

「でも、ここでならこの姿を保てるんです」

さちは心から嬉しそうに微笑み、自分の胸に手を当てた。

そして、その微笑みを潤へと向け、

「ご主人様、わたしと一緒にいてくださいませんか?」

ぐらり、と潤の心が揺らぐ。

「さ、さち……」

思わず一歩進みだそうとして、

「だめ!!」

素早く前に回り込んだとばりの背に阻まれる。

「だめよ、ご主人様。絶対にだめ」

とばりは顔だけで振り返って潤に釘を刺すと、睨むような鋭い目をさちに向けた。

「さちさん、初めまして、になるわね」

誰もが怯みそうな威圧的な視線を受けてなお、さちは穏やかな微笑みのままに返した。

「はい、初めまして」

「あたしはとばり。今あたしは、ひなたと一緒にこのご主人様に可愛がってもらってるの」

ちらりと目で潤を振り返り、ご主人様が誰であるかを示し、すぐに視線を戻す。

いっそうの攻撃的な意思を乗せ、とばりは言い放った。

「横取りは許さないわ」

さちは眉尻を下げ、困ったような表情に変わる。

「横取りなんて。わたしはそんなつもりじゃ」

「じゃあ、諦めてくれない? あなたは、もう死んでるんだから」

「とばり!」

とばりの言葉に、潤は思わず叫んだ。

認めねばならない事実であっても、言葉として聞きたくはない。

当然の感情だ。

だがとばりは冷静に現実を突きつける。

「本当のことでしょ。本人だって認めたんだから」

潤は反論できず、声を詰まらせる。

とばりは続けた。

「死者は生き返らない。この変な空間にしかいられないのがその証拠。あたしたちは現実を生きてるの。ご主人様をこんな場所に閉じ込めさせたりなんかしないわ」

とばりの冷徹とも取れる発言を受け、さちは涙ぐんだ目を潤へと向けた。

「ご主人様……」

潤の胸がぎゅっと締め付けられる。

「さち……」

再び一歩踏み出そうとして、

しかしそれよりも速く、とばりが動いた。

「どうせあんたも偽者なんでしょ?」

とばりの右手から淡い光が伸び、剣を形作った。

それが物体として固定される前に、とばりは大きく踏み込んだ。

「ご主人様の心を、もてあそばないで!!」

大上段へと振り上げ、具現化された剣を全力で振り下ろす。

「とばり! やめろ!」

「とばりちゃん! さちおねえちゃん!」

二人が叫ぶ。

だがとばりの剣は止まらない。

さちの頭へと、寸分違わぬ狙いで真っ直ぐに振り下ろされる。


ギィィンッ!


甲高い音が響いた。

見れば、とばりの剣とさちの頭部の間に薄い何かが割り込んでいた。

その何かは徐々に灰色に染まり、形を鮮明にしていく。

それはまるで翼。

さちの背から生える、一対の翼だった。

「くっ!」

とばりは歯噛みし、力ずくで押そうとするが、羽はびくともしない。

「わたしはご主人様といたいだけです」

翼の向こうで、さちが静かに言った。

「邪魔をしないでください」

翼がわずかに動き、とばりの視界にさちの顔が映る。

微笑みは残しているが、その瞳は明らかに雰囲気を異にしていた。

底なし沼のようなよどみが渦を巻いていた。

全てを引き込み飲み込む混沌を表す瞳は、とばりをも怯ませる。

とばりが腰を引いたのに合わせ、翼が一気に開いた。

衝撃に踏みとどまれず、二、三歩後退する。

追撃は速かった。

とん、と軽いステップで距離を縮めると、

「尖兵には持たせましたが、どうしてあなたがこんなものを持っているのですか?」

さちはそっと、優しい手つきでとばりの長剣に触れた。

「邪魔なものは、お片づけしましょう」

とばりの剣が光の粒へと変化し、消滅した。

武器を失い、とばりは戦慄に顔を引きつらせる。

対し、さちはにこりと笑い、

「あなたも、ですよ」

ばさりと翼がはばたかれ、そこから幾本もの羽根が飛び出した。

羽根は真っ直ぐに標的へと向かい、とばりの体に突き立つ。

「あああああっ!!」

悲痛な叫びを上げ、とばりは背中から倒れた。

「あ、あああ、ああ……!!」

この羽根にはどのような効果があるのか、

目を大きく見開き、びくん、びくんと全身を大きく振るわせる。

「と、とばり!?}

「とばりちゃん!!」

ひなたが慌てて駆け寄り、羽根を抜こうとする。

が、どんなに力を入れて引っ張ってもびくともしない。

ひなたはいっぱいまで涙を溜めた瞳をさちに向ける。

「どうして!? どうしてこんなことするの!? さちおねえちゃん!!」

「ごめんなさい。でも、邪魔をするから」

さちは心底申し訳なさそうな顔をする。

だが、

「とばりちゃんを治して!!」

「それはできないわ。邪魔をされたくないもの」

ひなたの懇願は聞き入れない。

「あんなに、あんなに優しかったのに……」

ひなたは思い出す。

まだ小さかった自分を、本当の姉のように可愛がってくれたさちの姿を。

いつも一緒に遊んでくれた、色々なお話を聞かせてくれた、

寂しい夜は一緒に寝てくれた、大好きなおねえちゃんの姿。

陽だまりのように暖かく、大切な思い出。

その中の姿と、今目の前にいる姿は、形こそ同じなれど、中身は全くの別物。

ひなたは悲しみに顔をくしゃりと歪め、一滴の涙をこぼした。

涙を袖でごしごしと拭う。

袖を離すと、強い眼差しがさちを睨んだ。

「やっぱり、偽者なんだ!!」

立ち上がり、勢いよく駆け出した。

とばりの剣が消された瞬間を見ているにもかかわらず、

右手に短剣を現し、振りかぶる。

「ひなたちゃん、あなたまで邪魔をするの?」

悲しい顔をしたさちが迎える。

「やあああああーーーー!!」

もう相手がさちだとは思っていない。ひなたは迷わずに切っ先を突き出した。

「そう……なら、仕方ないわね」

迫る凶刃に怯えもせず、さちは双眸をすっと細めた。

ばさりと翼が広がり、幾枚かの羽根が舞う。

羽根は宙でくるくると回転したかと思うと、光の弾に変じ、ひなたを襲った。

「あうっ!」

全身を強打され、ひなたはその場でくずおれた。

さちはその傍らに歩み寄り、

「ひなたちゃん、いい子だから、おとなしくしててね」

羽根を放った。

「うああああああ!!」

ひなたもまた、とばり同様に全身を震わせる。

体をくの字に折り、焦点の合わなくなった瞳が大きく揺れていた。

その様子に満足そうに微笑むと、さちは潤へと微笑みを向けた。

一歩踏み出し、

「さあ、ご主人様。わたしと……」

そっと手を伸ばす。が、潤は動かない。

顔をうつむかせ、苦しげに顔を歪めている。

「どうして、こんなことを……」

「だって、わたしはただご主人様と一緒にいたいだけなのに、とばりさんもひなたちゃんも、邪魔をするから……」

ぎり、と潤の奥歯が音を鳴らした。

「違う」

短い否定の言葉に、さちは口をつぐむ。

「さちは、いつだって他人を優先してた。自分が貧乏くじを引こうとも、自分の願いよりも誰かのためになることを優先してた。ましてや、誰かを傷つけてまでなんて、するやつじゃない!」

潤が顔を上げる。その表情は怒りに満ちていた。

「お前は偽者だ!!」

「ご主人、様……」

潤の怒声に、さちは怯えた表情を見せた。

だがそれももはや、火に油を注ぐだけ。

「そんな顔をするな……偽者がっ!!」

怒りをみなぎらせた視線がさちを射抜く。

ただそれだけで殺されそうな強い視線を受けて、

しかしさちは怯えを消し、無表情になる。

「いいのですか?」

感情の消えた口調で、さちは言った。

「偽者であったとしても、さちはさちです。ご主人様が望めば、永遠に添い遂げられるのですよ?」

「いらない! 姿かたちを真似ただけの偽者なんていらない!」

即答の否定。

潤は続ける。

「さちはここで生きている」

潤は自分の胸に手を当てた。

「思い出の中だけだとしても、俺は本物のさちが好きなんだ! 本物じゃなければ意味がないんだ!」

さちとの楽しい日々。

その思い出の中に、目の前にある冷たい表情は存在しない。

「だから、お前は消えろぉぉぉぉぉ!!」

潤の右手が光った。

光は何も形作ることなく、ただ光のままに力を増していく。

「おおおおおお!!」

潤は光り輝く右手をさちへと繰り出した。

さちは翼を操り、盾とする。

とばりの剣と同じように、潤の拳を防ぐかに思われた。が、


ビシッ


音がして、翼にひびが入った。

「おおおおおおおおおおお!!」

潤が更に力を加えると、ひびは広がり、やがて……


バキィィィィィィィンッ!!


砕け散った。

さちは驚きの表情を見せながらも、大きく跳び退り、距離を取る。

潤は床を蹴り、それを追う。

「うわああああああ!!」

片翼となったさちに、容赦なく拳を降り注がせる。

光を持っていない左手でも構わず、ただ目の前の敵を打ち据える。

さちは防御で手一杯となり、反撃に転じれない。

やがて、残った片翼までもが音を立てて砕けた。

「終わりだっ!!」

最後の一撃。潤は懇親の力で繰り出した。が、

目の前のさちの姿がふっと消えた。

どこへ?

思う間もなく、数メートルの距離を取ってさちが現れる。

「ちっ!」

潤はあからさまな舌打ちでいらだちを表した。

だがそれは相手も同じ。

思いもよらぬ潤の攻撃に、今までの余裕はどこへやら。

うっとうしいものを見る目で潤を睨んでいる。

「わかりました。なら、ご主人様もここで殺してあげます。この世界の一部として、永遠に一緒に!!」

さちの背に翼が復活する。今度は二対。計四枚の羽だ。

いくつもの羽根が浮かび、光の弾と化し、潤へと。

「やられるかぁっ!!」

潤は拳を前へ突き出す。

すると拳は光を増し、飲み込まれた光の弾を消滅させていく。

それだけにとどまらず、潤の光はどんどんと膨れ上がり、

視界を光で満たし、そして……

目も開けていられないほどの光が収まった時、世界は一変していた。

全ての建物が消え、

ただ平坦な地面と灰色の空が延々と続くだけの、何もない世界となっていた。

予想外の事態に、さちは焦りを隠せない。

自分の世界が改変されたことを信じられないと言いたげな顔で周囲を見渡した。

更に、

「う……あたし、あれ?」

「とばり、大丈夫か?」

「ええ、ちょっと頭が痛いけど」

少しふらつきながら、とばりが立ち上がった。

その体に刺さっていたはずの羽根は見る影もない。

同様に、ひなたも体を起こす。

「う〜ん……」

「ひなた、目が覚めたか」

「あれぇ? ボク、何してたんだっけ?」

頭をふらつかせ、寝ぼけ眼をこすりながら辺りを見回す。

「ひなた、しっかり目を覚ましなさい。寝るのはちゃんと家に帰ってからよ」

とばりが言うと、ひなたははっと目を見開いた。

「あ、そっか。偽者のおねえちゃんを倒さなきゃ!」

立ち上がり、敵に眼を向ける。

学校内のどこかに隠されていたのか、離れたところでは美和と御堂も目を覚ましていた。

こちらの二人はまだ事態を飲み込めていないようで、

平坦な世界の中、対峙する潤たちと四枚の翼を生やしたものを見て、頭を混乱させている。

「潤! これはいったい、どういうこっちゃ!?」

御堂が素っ頓狂な声を上げた。

潤は手早く答える。

「話は後だ! こいつ、さちの偽者をなんとかしないと、俺たちは帰れないみたいだぞ!」

「さちの偽者?」

御堂が改めて翼を生やしたものを見る。よく見知った横顔に顔をしかめた。

「さちの偽者まで登場させるんか。たちの悪い冗談やな」

その隣、美和が御堂に聞いた。

「あの人がさちさん、なんですか?」

「いや、違うで。本物はもっと穏やかで優しい顔をしとる。あんなのまがい物にも程があるわ」

偽者、つまりは敵。

二人も戦闘に備え、身構えた。

「これで五対一だ。みんな、いくぞ!」

潤の掛け声が士気を高める。

その様を眺めながら、さちは禍々しく顔を歪めていた。

すでに本物の演技をする余裕もないようだ。

「まとめて死ねぇっ!」

ぎらぎらと瞳を殺気で輝かせ、

いくつもの音が混じったような、似ても似つかぬ耳障りな声で叫ぶ。

羽根が舞い、光の弾が五人へと放たれる。

「このっ!」

潤が右腕を振る。

手の先から現れた大きな光の波が偽さちごと弾を飲み込み、消滅させた。

偽さち本体にはダメージは見られないが、二対の翼は薄くなっている。

忌々しそうに顔を歪め、修復を図るが、遅い。

完全に元に戻る前に、とばりが間合いを詰めていた。

偽さちに消されたはずの剣が、右手に握られている。

「はぁぁぁっ!」

とばりはそれを全力で薙いだ。

偽さちは後退し、すんでのところで切っ先をかわす。

攻撃は止まらない。

連続する斬撃に、偽さちは更に後退。

少しずつ翼は修復されているが、回避に集中しているため、時間がかかっているようだ。

とばりはいきなりぐっと体勢を落とし、足を狙った。

上半身に集中していたとばりの攻撃から逃れようと体が反り気味になっていたため、

足はすぐに引っ込められない。

浅くではあるが、とばりの剣が偽さちのすねを切り裂いた。

偽さちの体がわずかに傾ぐ。

好機。

とばりは偽さちの首筋めがけ、伸び上がるように突きを放った。

偽さちは強引に体をひねり、切っ先から逃れると、自ら地面に倒れる。

追撃の唐竹割りを転がって回避し、すぐさま立ち上がる。が、

「ひなた!」

とばりの合図で、偽さちの死角へと回り込んでいたひなたが跳びかかった。

「やぁぁぁーーー!」

起き上がったばかりの偽さちは、回避行動を取れない。

やむなく、といった風に、まだ少し透けて見える翼でひなたの短剣を防いだ。

みしみしと音がし、翼が押される。

だが、他の翼から抜け出た羽根がひなたへと降り注いだ。

「わあっ!}

「ひなたちゃん!}

ひなたと同時に美和が叫び、呼応するかのように円盤が飛ぶ。

高速で宙を行く五枚の円盤は、四枚がひなたを狙った羽根を打ち落とし、

残りの一枚が偽さちのわき腹をえぐった。

強烈な一撃に偽さちは大きく吹き飛び、地面を転がる。

「美和! ナイスフォロー!」

とばりは美和にちらりと笑みを向けた。

美和にとってはとっさの行動だったため、恥ずかしさ混じりに笑みを返す。

「今だ!」

潤が跳び出した。

とばりとひなたもそれに続く。

「くそっ! 俺にも武器があったら!」

状況に置いていかれた御堂が毒づいた。

すると、御堂の右手から大きな両手剣が。

なんだかよくわからず、しばし眺めたり振ったりしてみたが、

これが己の武器であると判断すると、

「よっしゃー! 俺も助太刀するでーー!」

嬉々として、偽さちを中心に乱戦を繰り広げる潤たちの中へと乱入した。

一気に偽さちの旗色が悪くなる。

攻撃を仕掛けようとしても、飛び道具は全て潤の光に消され、

翼による直接攻撃も美和の円盤に防がれ、

思いのほかに巧みな連携を見せる潤たちに、本体のダメージは蓄積していった。

「おのれ……おのれぇぇぇぇェェェェェェッ!!」

偽さちが叫ぶと、四枚の翼が膨張し、灰色の光を放射した。

「うわあ!?」

「くうう!!」

「なんや!?」

三人は吹き飛ばされそうになり、ぐっと堪える。

「やらせるか!」

潤の拳はなおいっそうの光を放ち、灰色の光を無へと帰す。

余波により、偽さちの翼はいよいよ陽炎のように揺らめくまでに薄くなる。

「そんな邪魔な羽、いっそ!」

とばりが剣を振るった。

翼が一枚、根元から切り裂かれ、虚空へと消える。

「ボクも!」

ひなたの短剣が二枚目を刈り取る。

「えい!」

美和の円盤が三枚目をちぎった。

「俺も見せ場作ったる!」

御堂の両手剣が四枚目を。

「何故!? 何故こんな!? わたしの世界で!! わたしの世界なのに!!」

偽さちが悲痛な叫びを上げた。

その問いには、潤が答える。

「ひとりの世界に引きこもってるだけのやつが、強いはずないだろ!!」

攻撃も防御も失った偽さちの正面、

潤は思い切り引いた右の拳を真っ直ぐに突き出した。

「俺たちはひとりじゃない! みんながいるから強くなれるんだ!」

潤の光が偽さちを飲み込む。

偽さちは顔を苦悶に歪ませながらも、震える手で潤を掴んだ。

「ならば、せめて、おまえだけでも、みち、づれ、に……」

さあっ、と流れるように外側から色が消え、世界が偽さちへと吸収される。

偽さちは、にいっ、と唇で三日月のような弧を描き、不気味に笑った。

潤を掴む手が灰色に発光し始め、しかし、びくりと体を震わせる。

不気味な笑みを消し、目を見開き、かすれた声を出す。

「だ、め……」

苦しげに押しつぶされてはいるが、ノイズの混じっていない明確な声。

と同時に、灰色の光が失われていく。

「ごしゅ、じん、さ、ま……」

つぶやくように言うと、にこりと笑った。

これまでの偽者とは明らかに違う、陽だまりのような、穏やかで優しい笑顔。

それを見て、潤は息を飲んだ。

「さ、さち……?」

笑顔のさちは答えないまま、全てが光に包まれた。










かすかに冷たい風を感じ、潤は目を開けた。

視界に飛び込んできた景色に動揺し、辺りを見回す。

あの日あの時と寸分違わぬ姿のさちが、テラスの手すりに手を置いて、

夜空にぽっかりと浮かぶ満月を見上げていた。

(偽者か? それとも……)

すぐに判断のつかない潤はしばし立ち尽くす。

沈黙を破ったのは、さち。

満月から潤へと体を向け、申し訳なさそうに頭を下げた。

「ごめんなさい、ご主人様」

潤は答えられない。

構わずにさちは続けた。

「わたしのせいで、みなさんを巻き込んでしまいました。本当にごめんなさい」

もう一度頭を下げる。

その自然な振る舞いと、感情を如実に訴える瞳に、潤はわずかばかり警戒を解く。

「さち、なのか?」

一応距離は取ったまま聞いた。

さちは答える。

「信じてもらえるかわかりませんが、わたしは本物です。いえ、あの時のわたしも本物と言えるかもしれませんが……」

はっきりしない物言いに、潤は眉根を寄せた。

「どういうことだ?」

「ご存知の通り、わたしは死にました。ですが、あまりの未練の深さに成仏できなかったのです。あの世にいけなかった魂は、本来現世をさまようはずなのですが、わたしの執着心が、わたしが理想とする世界を作ろうとしてしまったのです」

さちは夜の町へと目を向けた。

静かな、ただ静かなだけな世界。

さちは寂しそうにそれを眺めながら続ける。

「いつしか負の感情は押さえが効かなくなるほどに膨れだし、現世をさまよう様々な無念を取り込んで、なおいっそう強くなっていきました。そして、遂にはご主人様たちをこの世界に引きずりこんでしまったのです」

さちは潤へと向き直り、

「全てわたしが悪いのです。どんなに謝ったところで許してもらえるとは思えませんが……ごめんなさい!」

三度、深々と頭を下げた。

「もういいよ。もう充分だ」

潤はさちにそっと近づくと、その体を優しく抱きしめた。

「さちは悪くない。誰だって欲しいものに執着するのは当たり前だ。俺だってそうだしな」

「でも……」

震えた声を出して身を硬くするさちをいっそう優しく抱きしめて、潤は続けた。

「むしろ、謝らなきゃいけないのは俺のほうだ。俺のせいでさちが苦しんでいたんだから」

潤は、空虚な世界にひとりいたさちの苦しみを思い、

「ごめんな」

謝罪の意をしっかりと言葉に乗せた。

さちははじかれたように顔を上げる。

「そんな! ご主人様だって、あんなに苦しんで……」

さちの言葉に、潤は体を離した。

正面からさちの顔を見て、驚愕の表情を浮かべながら聞く。

「見てたのか?」

その慌てぶりに目をぱちぱちさせながら、さちは答える。

「ぼんやりと、ですが」

「じゃあ、俺とひなたととばりのことも……?」

少しばつが悪そうに口ごもる潤に、さちは少しの寂しさを混じらせた笑顔を向けた。

「はい、三人で幸せにしているところも見ていました。ご主人様が幸せで、嬉しく思いましたが、ちょっぴり嫉妬もしてしまいました。もしかしたら、それも今回の原因の一部になっていたかもしれません」

そう言ってうつむくさちに、潤は苦笑を浮かべつつ言った。

「誰だって嫉妬くらいするさ。俺だってさちが他の男と仲良くしてたら嫌な気分になるぞ」

そして、今度は困惑気味に目を泳がせながら、いい訳じみたことを並べる。

「それに、なんだ。うまく言えないけど、ひなたととばりのことは、浮気とかじゃなくてだな。さちのことは好きなままだけど、それとは別って言うか……あー! くそ! どう言えばいいんだ!」

顔を真っ赤にしてがしがしと頭をかく潤に、さちはくすりと笑みを漏らした。

「ふふ、ありがとうございます」

どうして礼を言われるのかわからず、潤はしばし目を白黒させ、

しかし許してはもらえたようなのでほっと息をつく。

さちは少し顔をうつむかせて、微笑んだまま目を閉じた。

何をしようとしているのかわからず、潤はただ様子を見る。

数秒置いて、さちは顔を上げると、唐突に告げた。

「ご主人様、わたし、あの世に行きます」

驚く潤に、さちは続ける。

「ご主人様たちのおかげで、負の感情は消えました。今なら、きっと」

潤は何度か口をパクパクさせてから、ようやく言葉を紡ぎ出した。

「でも、別に、無理して……」

ここにいてくれればまた会えるのではないかと、かすかな期待がよぎる。

しかし、さちは首を横に振った。

「ここに居続ければ、またみなさんに迷惑をかけてしまうかもしれません。それに、生き物として当然の流れなのですから」

さちの決意は固い。

潤にできるのは、不本意ながらもうなずくことだけだった。

「今度こそ、お別れです」

悲しい言葉が潤の胸を刺す。

別れたくはない、まだ一緒にいたいという願いが心の奥から湧き出す。

わがままではあっても、それが素直な感情だった。

だが、さちは行ってしまうだろう。ならばせめて……

「すごく寂しいですが、でも、こうして最後にまたお話できただけでも……」

「なあ、さち」

割り込むように、潤は口を開いていた。

「前に話してくれたよな。主人に世話になった犬が犬耳っ子になった話」

「はい」

耳っ子の間に伝わるおとぎ話。

優しい人間に拾われ、温かな時間をすごした老犬が死を経て耳っ子となり、主の元へと帰るお話。

出所もわからず、ましてや現実味など皆無に等しい。

しかし、あの時さちは言った。ご主人様に優しくされた犬がいたのでしょうね、と。

だから自分はここにいて、ご主人様との時間を過ごしたのだろうという意味だろう。

ならば潤もまた、その伝承を信じてみようと思った。

「じゃあさ。主人と深い絆で結ばれた犬耳っ子はどうなるんだろうな?」

「え?」

潤の問いに、さちは目を丸くする。

「ただの思いつきだから、どうにもならないかもしれないけど。でも、約束してくれるなら俺は待つよ。お前が手紙に書いてくれたとおり、がんばりながら」

さちの目にみるみる涙が溜まっていく。

つう、とそれが落ちる頃、

さちは、夜空に浮かぶ満月に負けないほど美しい、満面の笑顔を浮かべた。

「……はい。必ず、必ずまたお傍に」

その言葉を最後に、すう、と世界が闇へと包まれだす。

潤の意識も徐々に暗転していく。

遠のく中、潤は誓う。

またさちと出会うまでしっかりと生きていくことを。




















「ご主人様! 朝だよ! 起きて起きて〜!」

ひなたの声と腹部に感じる重みで潤は目を覚ました。

体がうまく動かないことに疑問を感じ、目を動かす。

腹の上にひなたが馬乗りになっていた。

「どいてくれ。起きられん」

「は〜い」

ひなたは素直にベッドから降りる。

潤は体を起こし、大きなあくびをひとつすると、まだ明瞭でない口調で言った。

「もうちょっと普通に起こせよ」

「だって〜、なかなか起きないんだもん」

楽しそうに答えるひなたに、潤はやれやれと頭をかく。

枕もとの目覚まし時計を見れば、いつもと同じ起床時刻を示していた。

カーテンを開け放たれたガラス戸からは朝の爽やかな陽光が降り注ぎ、

小鳥の鳴き声と相まって、今日もいい天気であることを告げていた。

キッチンから流れてくるいい匂いに空腹を感じると、

ちょうどとばりと美和が朝食を運んできた。

「おはよ、ご主人様」

「おはよう、お兄ちゃん」

「ああ、おはよ」

朝の挨拶を返し、食卓へと着く。

四人そろって「いただきます」をすれば、いつもの朝食風景が始まった。

食事の最中、潤は何かもやもやとした気分に襲われた。

何か大切なことを忘れているような気分だ。

あまり箸を進めずに仏頂面をしている潤に、とばりが聞いた。

「どうしたの? ご主人様」

「ん〜、なんだか大切なことを忘れているような気がする」

「大切なこと?」

「ああ、大事な約束だったような気がするんだが……」

「約束ねぇ。何かしてた?」

とばりはひなたと美和へと疑問を投げた。

二人は、

「約束? 約束、約束……う〜ん……」

「わたしはしてないと思うけど」

と、それぞれに答えを返した。

「気のせいじゃない?」

「かなぁ」

言いながらも、依然箸を止めて考え込んでいる潤に、とばりはぶっきらぼうに言う。

「ほらほら、ちゃんとご飯食べないと。今日もお仕事あるんだからね」

「ああ、わかってるよ」

潤は晴れない疑問を頭の隅に追いやり、口にご飯をかき込んだ。





ペットショップFRIENDSにて。

今日も今日とて忙しい一日が始まる。

潤たちの今日の仕事は、下の階のペットショップ。

接客、品物の補充にトリミングと、なかなかにあわただしい。

店にとっては嬉しい悲鳴、店員にとってはただの悲鳴が聞こえてきそうだ。

昼食もそこそこに、午後もめまぐるしく過ぎていく。

ようやく客が引いた、閉店までもう少しという時間、

潤が少し気を抜いて商品のチェックをしていると、

「すみません」

店の入り口から声が聞こえ、慌てて接客に出ようとして、

「いらっしゃいま……」

潤は言葉を失った。

入り口にいたのは見覚えのある姿。

いや、少しだけ違う部分もある。

ウェーブのかかった肩口までの髪、透けるような白い肌、たおやかな笑みはそのままに、

耳と尻尾が消えていた。

朝から潤の頭を覆っていたもやもやが一気に晴れる。

あの町での出来事と最後の約束が、潤の脳にフラッシュバックした。

そして、約束の相手は、今まさに目の前に。

「ご主人様、わたし、わたし……」

感極まったように目に涙を溢れさせ、

「わたし、人間に……」

言葉を詰まらせ、代わりにぽろぽろと涙をこぼしながら、

それでも笑顔は心からの喜びを表している。

潤もまた涙を必死で堪えながら、笑顔を向けた。

「じゃあ、もうご主人様って呼ぶのは、変じゃないか?」

「あ、そうですね。じゃあ、なんとお呼びしたらいいですか?」

「名前で呼んでくれればいいよ」

「はい。潤さん、ですね」

言って、少し頬を赤く染める。

「なんだかちょっと照れくさいです」

「そのうち慣れるよ」

「はい」

潤はひとつ深呼吸をして気持ちを落ち着けると、一番言いたかった言葉を口にした。

「おかえり、さち」

「はい、ただいま帰りました」



二人は再び出会いを迎えた。

だが、これで終わりではない。

これからも二人が時を歩み続ける限り、幾多の試練、苦難が待ち受けるだろう。

それを乗り越えられるかは彼らしだい。

ならばせめて、信じ、祈り続けよう。

彼らが試練などに屈することなく乗り越えていくことを。

苦難を経てなお、笑顔であり続けることを。

永久に幸福であらんことを。










 Fin










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<あとがき>

ど〜もご機嫌ようです。
『Nightmare Town』楽しんでいただけましたでしょうか?
一応さちお誕生日おめでとう企画のために書いたはずなのですが、
途中から自分で「これなんのSSだろう?」とか疑問に思い始めたり。
ま、元々が某フラッシュ作品のパクリだとバレバレだからいいでしょう。

ブログには書きましたが、この作品は(仮)をつけてもいいかなと思えるような、
言うなれば簡易版です。
最初にこのネタ考え始めた時はもっと壮大でした。
大都市、あるいは三つの町を舞台に、
三十人くらいの登場人物が入り乱れて様々な人間ドラマを繰り広げるという……
要するに、Mの力量では到底扱いきれず、
また、Mの執筆速度ではどれだけ時間かかるかわからないネタでした。
熱出して寝込んでいるうちに簡易版のストーリーが沸いてまとまっちゃったので、
それでいいやと書いたといえば、まあそれだけなんですが。

とはいえ、ラストは悪くない感じにまとめられたかなと思います。
やっちゃったといえばやっちゃったかもしれないですけどね。
前々から望んでいたとはいえ、やっちゃいましたよさち復活!
しかも人間になっちゃってるし!
気にしちゃだめです。だってMの妄想だからw
独りよがりな勝手な妄想ではあっても、さちの幸福を祈る気持ちに偽りはないのです。
それだけは信じてやってください。お願いします。(土下座)

では最後に……
さち、お誕生日、おーめーでーとーおーーーーーーー!!

以上、SS本編はぎりぎりで間に合ったけどあとがき書いてるうちに日付が変わってショォックなMでした♪
でわでわ〜♪

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