M 様投稿作品






みなさんはご存知だろうか?

ぴゅあぴゅあの世界に存在する耳っ子は、何もペットとして利用されているだけではない。

様々な形で人とかかわり、絆を深めているのだ。

本編ではたまたま出てこなかっただけである。

以下に、その一例を挙げてみよう。



 ぴゅあぴゅあ外伝 ある耳っ子の物語
    その3 盲導犬編



日本の首都圏近郊の閑静な住宅地。

その中にたたずむ、白い壁と赤い屋根、

狭いながら庭と二台の車を止められるガレージ付きの一戸建て。

表札に『園部』と書かれたその家の台所には、窓から差す朝の光に包まれながら、

しかしその爽やかさとは相反する真剣な目をしている犬耳っ子の少女がいた。

犬耳っ子が凝視しているのは、ガスコンロの上でしゅうしゅうと湯気を噴いているやかん。

今にも甲高い音を発しそうなやかんを、犬耳っ子は緊張した面持ちでただ見ている。

口は引き結ばれ、栗色の柔らかな毛で覆われた尻尾はぴんと張り、

耳だけが一定のリズムを刻むようにぴくぴくと動いていた。

耳の動きと同じリズムで、台所の壁にかけられている丸い時計の秒針が音もなく時を刻む。

それが一周した頃、やかんから噴き出す湯気がわずかに量を増した。

犬耳っ子の耳がぴくんと一際大きく動き、細められていた瞳がわずかに見開かれる。

「えい!」

掛け声と共にコンロのつまみがひねられるのと同時にヤカンが鳴り出し、

コンロの火が止められたことにより、すぐに音はやむ。

犬耳っ子は何かを成し遂げたような満足気な笑みを浮かべてやかんを手に取り、

脇に用意していたコーヒーメーカーへと熱い湯を注いだ。

こうばしい香りを上げながらこぽこぽと黒色の液体が落下する様子を、

犬耳っ子はご機嫌な顔で眺める。

そのご機嫌具合は、緊張を解き、ぱたぱたと揺れる尻尾を見れば一目瞭然だ。

抽出が終われば、出来立てのコーヒーを白いマグカップに三分の一程注ぎ、

角砂糖をひとつと牛乳を多めに入れてかき混ぜる。

お気に入りの花柄の丸い盆に載せ、犬耳っ子は台所を出た。

少し急な階段を、カップの中身をこぼさないよう慎重に上り、二階へ。

正面の扉の前に立つと、ノックを二回。

「失礼します」

一声かけて、扉を開けた。

中はごくごくありふれたシンプルな部屋。

右の壁際には大きめのベッドと本棚がふたつ。

本棚の内容は、漫画や小説といった娯楽用の書籍が収められたものと、

辞書や事典といった資料が収められたもの。

左手のベランダに続くガラス戸からは、

薄いレースのカーテン越しに日の光が室内を照らしている。

そして正面。

入室してきた犬耳っ子に気づいていないかのように、木製の椅子に座り、

イヤホンを耳に入れたままパソコンのキーボードを叩く男がいた。

男は時折指を止めてマウスを操作し、

イヤホンから聞こえてくる機械的な音声に耳を傾けている。

犬耳っ子は、無視されているかのような状況にも動じず、

いつものように男の背中に話しかける。

「コーヒーをお持ちしました。置いておきますね」

持ってきたコーヒーを、盆ごとサイドテーブルの上に置く。

すると男はようやく犬耳っ子に気づいたのか、イヤホンを外し、振り返った。

「ありがとう、ちあ」

『ちあ』と呼ばれた犬耳っ子はにこやかに微笑み、「いいえ」と答えた。

男の瞳がどこかうつろで、視線がしっかりと自身に向いていないことなど気にも留めない。

「温かいうちにどうぞ」

「ああ、いただくよ」

男はそう言うと、少し緩慢な動きでサイドテーブルへと手を伸ばす。

探っているようにカップへと近づくその手に、ちあはそっとカップの取っ手を握らせた。

男はしっかり取っ手を持つと、やはりゆっくりとした動作で口へと運ぶ。

中身を一口すすり、

「うん、おいしいよ」

男のほめ言葉に、ちあは笑みを深くして頬をほのかに染めた。

男はもう一口コーヒーをすするとゆっくりとカップを盆に戻し、

ちあのほうへと目を向け直した。

「一区切りついたんだけど、チェックをお願いできるかな?」

「はい、わかりました」

男が椅子を引いて体をどけると、

ちあはパソコンの画面に展開されている文字の列をゆっくりと読み始めた。

つづられている文章に感情移入してしまいそうになるのを堪え、ちあの朗読は続く。

ところどころにある誤字や脱字はその都度進言し、直していく。

男はコーヒーをすすりながら、朗々と響くちあの声に聞き入っていた。










二人の出会いを語るには、いささか時をさかのぼらねばならない。

七年前、男、園部正弘は新進気鋭の小説家としてデビューを果たした。

読書(といってもライトノベル中心だが)が趣味の正弘は、

ふとした思い付きで自ら文章を書き、

どうせ書いたのだから程度の意思で投降したところ、思いがけず入選してしまう。

驚く間もなく、迫力のあるアクションシーンはあれよという間に人気をはくし、

有名雑誌で連載するまでに上り詰めた。

だが、禍福は糾える縄の如し。

幸運を味わえば味わうほど、より深い不幸が待ち受けるものだ。

ましてや、さほど努力した訳でもなく降って沸いた幸運につかまり、

有頂天になっていればなおのこと。

ある日、近所の飲み屋で友人たちとしたたかに飲んだ帰り道。

千鳥足で歩いていた正弘は少々物騒なチンピラとぶつかってしまった。

素直に謝ればいいものを、態度が大きくなっていた正弘はチンピラと喧嘩になり、

両目を負傷してしまう。

野次馬の通報により駆けつけた救急車に運ばれた正弘は、病院にて医師から宣告された。

曰く、「両目とも光が戻ることはないでしょう」

文字通り目の前が真っ暗になった正弘は荒れた。

部屋にこもり、誰が来ても扉を開けずに、ただ一人絶望に打ちひしがれた。

無論、出版社も文章の書けない小説家などに用はない。

連載は打ち切られ、編集者も当たり障りのない慰めの言葉だけ残して去っていった。

何日が経過したか、正弘の心の闇はいっそう濃くなり、

いよいよ自身の命まで飲み込まんとした時、その音は暗闇に包まれた正弘の部屋に響いた。

携帯電話の着信音。

すでに何度となく無視してきたその音に、正弘は最後のつもりで携帯電話を手に取った。

「もしもし……」

生気を感じさせない正弘の声に、電話の相手は爽やかに応じた。

相手は、正弘の友人の知り合いだと答えた。

盲導犬を扱っているのだが、どうだろうかと。

最初は何をしたところで自分の目に光は戻らないと拒絶していた正弘も、

自由に外を歩けるようになるという言葉に心を動かされた。

無限の暗闇にいるからこそ、ほんのかすかな希望にもすがろうとしたのだろう。

気づけば、正弘はうなずいていた。

翌日、電話の相手は一匹の犬耳っ子を伴い、正弘の家を訪れた。

その男性は正弘に盲導犬協会のことと盲導犬の扱い方を簡単に説明して帰っていった。

二人きりになり、正弘がまず最初にちあに願ったことは、

「その辺を散歩したい」

明確な目的地までの案内を訓練されてきたちあは戸惑いを得たものの、

それでも正弘の願いをかなえようと、連れ立って外へ出た。

訓練を終えて間もないちあは、初めて訪れた見知らぬ場所を、

冷たい拒絶の意思を腰部のハーネスから伝わらせてくる新たな主を連れ、

緊張に身を硬くしながら歩いた。

曲がり角を教え、段差を示し、自動車の接近を警告。

ろくに返事もしない主に不安を覚えながらも、ちあは無事に正弘を家まで連れ帰った。

どうにかうまくいったとほっと胸をなでおろすちあに何も言わず、

正弘はすぐさま自室に戻り、ベッドへと身を投げた。

訓練と違い、成し遂げてもほめてもらえないことに更に不安を募らせるちあに構いもせずに。

翌日、空腹を覚えて目を覚ました正弘は、何か食べようと部屋を出て、それに気づいた。

漂ってくる香ばしい匂い。

壁を探りながら階段を慎重に下り、キッチンへと入る。

「あ、おはようございます」

緊張を感じさせるちあの硬い声が迎えた。

「あの、朝ごはんをお作りしたのですが、お召し上がりになりますか?」

正弘は「ん」と短く返し、食卓に着いた。

程なくして、目の前に何かが置かれる音が正弘の耳に入る。

「ハムを乗せたトーストとコーヒーです。どうぞ」

何も答えず食卓の上を探る正弘の手を、ちあはそっとトーストまで導き、持たせた。

正弘はそれを無造作にひとかじりし、乱暴に租借しながらつぶやくように言った。

「盲導犬ってのは、こういうこともするんだな」

ちあは答える。

「いえ、普通はこういうことはいたしません」

一口目をごくりと飲み込みながら、正弘はちあのほうに顔を向けた。

「じゃあ、なんでだ?」

「盲導犬を必要とされる方は、家事をするのも大変かと思いまして、自分で勉強しました」

正弘の光を映さぬ瞳が、感情を反映して軽く見開かれた。

一拍の間を置き、正弘は次の質問をぶつけた。

「どうしてそこまでするんだ?」

ちあはその質問に、ゆっくりと答えた。

軽く目を閉じて、穏やかな微笑みと共に。

「以前、すでに盲導犬と共に生活をされている方に付いて、研修を行ったことがあるのです」

それは盲導犬として一人前と認められるための最後の試験。

「その時、私がきちんと指示をこなすと、ありがとうと言って、頭を撫でてくださったのです」

思い出されるのは、初老の男性の笑顔と、頭を撫でてくれる温かい手。

「それがとても嬉しくて、その方の笑顔がとても素敵で、誰かに喜んでいただけることの素晴らしさを知りました」

そして、その手から伝わってくる優しさと、心の温かさ。

「盲導犬としてだけでなく、もっと誰かに喜んでいただきたいと、自分にできることはないかと考えた結果、家事の勉強をしました」

興奮しているのか、今までになく語気が強くなってきている。

それは堂々と、臆面もなく自分の気持ちを語るちあの様子が目に移らない正弘にも、

意志の強さを感じさせた。

「まだまだ不慣れですが、私、もっともっと努力して、正弘様に喜んでいただけるようになりますね」

そう締めくくったちあに、正弘は自身を省みる。

自分は今まで何をやってきたのかと。

もののはずみで作家になり、いつの間にやら人気も上がり、

しかし、書き続けたのは自分のためでしかなかった。

ファンレターやメールも人気作家だから来るのは当たり前。

どこぞの掲示板で叩かれていても、

自分の物語の面白さがわからないやつは読まないでいいと腹を立てる。

文章の直しを求められればいらだち混じりにキーボードを乱暴に叩き、

誤字脱字を指摘されれば編集者が直せよと愚痴を吐いていた。

ただ惰性で仕事をしていた日々。

どこに温もりや意思があろうか。

どこにもありはしない。

刺激を求める若者が面白がって飛びついていただけの文章。

正弘は、今まで書いてきた己の作品が薄っぺらでしかないことにようやく気づいた。

―――俺は何がしたかったんだろうな。

人間に飼われているはずの犬耳っ子のほうが、よほどしっかり生きている。

自分はたまたま乗れたいい流れに沿って、勘違いをしていただけ。

―――俺もこいつみたいに、胸を張って生きられるだろうか。

―――もっと自信を持って、たくさんの人に読んでもらいたいと思える物語を書けるだろうか。

決意が浮かぶ。

しかし同時に、不安もある。

目が見えない自分が、文章など書けるだろうか。

攻撃的な物語しか書いてこなかった自分が、

どうやれば感動と温もりを他人に与えられるだろう。

気持ちを落ち着けたくて、コーヒーを飲もうと左手を動かす。

その仕草に気づいたちあが、すぐさまコーヒーカップを握らせてくれた。

一口すする。

いつも自分で淹れたものとは違う味に、思わずつぶやいた。

「苦いな」

その言葉に、ちあは少々過剰に反応した。

「あ、すみません! ちゃんと分量を聞いてからお淹れしたほうが良かったですよね!」

先ほどまで誇らしげにしていたちあが急に慌てだし、

おろおろしながら「代わりをお持ちしましょうか?」などと聞いてくる様子に、

正弘はおかしくなって小さく噴き出した。

どうして正弘が笑っているのか理解できず、なおも混乱するちあをよそに、正弘は考えていた。

―――やり直そう。この盲導犬、ちあだって、まだまだ勉強が必要みたいだから、俺だってきっと努力していける。いや、今度こそ努力しなければいけない。もっと自分を誇れるように。

正弘はコーヒーカップをソーサーに戻し、今度はしっかりとした声で言った。

「コーヒーならお気に入りのマグカップがある。白くて大きいやつがそうだ。分量はコーヒーをスプーン一杯に角砂糖がひとつ。お湯を三分の一くらいまで入れて、後は八分目まで牛乳を入れる。これが俺……いや、僕好みのコーヒーだ」

いきなりの説明にきょとんとしているちあに、正弘は少し恥ずかしそうな笑顔を向けて続けた。

「次からは、それで頼むよ。ちあ」

ちあは二、三度目を瞬かせて、正弘の不器用な笑顔が自分に向けられていることを理解する。

そして、

「はい、わかりました」

満面の笑顔を返した。

ちあの嬉しそうな声に、少し気恥ずかしさを覚えた正弘は少し目を泳がせて、

「それと、正弘様って言うのはよしてくれ。なんだか恥ずかしい」

「はい、では正弘さんとお呼びいたします」

「ああ、それで頼む」

こうして始まった二人の生活は、すでに三年の月日を越えた。

ちあはより正弘の役に立てるようにと簡単ながらパソコンの操作まで覚えた。

更には、家ではよくコーヒーを飲む正弘に合わせて、

本格的なコーヒーメーカーまで買って、豆から挽いたりまでするようになる。

これには正弘も苦笑を禁じえないようだが、本人がやる気なので止めるつもりはないようだ。

今日のコーヒーも、近所のデパートに新しく入荷した豆を使ってみたということだが、

残念ながら正弘はそこまで違いのわかる舌を持っていない。

とりあえずおいしいと言っておけばちあは喜ぶので、それでいいといった具合だ。

今日も二人は静かでありふれた穏やかな生活を続けている。










ちょうど正弘がコーヒーを飲み終える頃、ちあの声が最後の一文を読み終えた。

「終わりました」

「ありがとう」

正弘は答えながらマグカップを静かに置いた。

「どうかな。今回のお話は」

「はい、いつもの事ながら、とてもおもしろかったです。特に主人公とヒロインが崩れ行くお城から脱出するシーンなんて、もうドキドキで……」

今、正弘が書いている物語は恋と冒険のファンタジー小説。

ペンネームはそのままに、以前のダークな印象の強いハードアクションから一気に方向転換をしたため、

ゴーストライターだの偽者だのとささやかれたりもしたが、

徐々に新しいファンも付き、おおむね好評を得ている。

特に、一番のファンがすぐ傍にいて、

感想をわかりやすく表現してくれるのことをとても嬉しく思っているようだ。

ひとしきり話し終え、しかし興奮冷めやらぬ様子で、

「次はどんなお話になるのですか?」

と聞いてくるちあに、正弘は笑顔で答える。

「それは書き上げてからのお楽しみだよ。先に知ってしまっては、おもしろくないだろう?」

「それは、そうですけど……」

言いながら、ちあは不満気に唇を尖らせる。

泳ぐように右往左往している視線が、

どうにかして聞けないものかと思案している様子を伺わせる。

だが、

「とは言っても、今日は編集部で打ち合わせがあるから、大まかな話はちあも聞くことになってしまうけどね」

続く正弘の言葉で、ちあの表情は一気に晴れた。

興奮がぶり返し、瞳の輝きがいっそう強くなる。

「それじゃあ早速行きましょう!」

声の近さに、ちあが身を乗り出すようにこちらを覗き込んでいる様を想像し、

正弘は苦笑を浮かべた。

「おいおい、そんなに急かさないでくれよ。それに、ちゃんとデータも持って行かないと意味がないだろう」

正弘に言われ、

ちあは「そうでした」と照れ笑いを浮かべながらメモリースティックにデータを保存。

その後、マフラーや手袋、コートといった防寒具をしっかり着込み、二人は外に出た。





むき出しの頬に十二月の冷たい外気が触れ、改めて外の寒さを感じる。

思わず吐き出した息は白く、冬の空気の中へと溶けていった。

「今日は特に足元にお気をつけくださいね」

正弘の耳に、ちあの声が聞こえる。

一歩踏み出せば、その言葉の意味が足の裏から伝わってきた。

さくり、と何かを踏む感触。

いつにも増して冷たさを感じさせる地面。

―――そう言えば……

朝食時を思い出す。

ちあが「外は雪で真っ白です」とはしゃぐように言っていた。

―――確かに、気をつけないとな。

いつぞや、その時は雪道ではなかったが、足を滑らせて転倒し、膝をすりむいたことがあった。

少し血がにじむ程度だっただけなのだが、ちあは激しく狼狽し、しばらくしゅんとなっていた。

ちあにはいつも元気でいて欲しい正弘にとっては重大なことだ。

自分がケガをすることよりもなお、ちあを悲しませたくない一心で、

正弘は気合を入れてハーネスの持ち手を握りなおした。

「では、いつもの順路でよろしいですか?」

ちあの質問に、正弘が「ああ、よろしく頼む」と答えれば、二人の歩みは開始される。

平日の静かな住宅地。

いくつかの轍と、いくつもの足跡。

登校中に子供たちが作ったのか、

飾り気のない頭と胴体だけの雪ダルマが電信柱に寄り添うようにたたずんでいる。

もうそろそろ南中に至ろうとする太陽は、弱いながらもそれらを優しく暖め、

二、三日も晴天が続けば雪の痕跡は残らず消えそうだ。

二人は、儚くも美しい雪景色の中を歩く。

住宅地を横切る用水路を渡り、

雪合戦で盛り上がる子供たちの声が響く小学校を横目に、大通りに沿って駅方面へ。

途中、幾人かの歩行者とすれ違い、自転車に追い越される。

ちあはそれらを的確に避け、正弘もその動きに追随する。

それもすでに自然な動き。二人には当然の行動だ。

ゆるいカーブを抜け、駅舎が見えてきたところで、二人はふと横道に入った。

大通りほどではないが、それでも片側一車線と歩道が設けられた道。

十字路を二つ過ぎ、三つ目で右折する。

少し歩けば、一つ目の目的地が見えてきた。

最近流行りの、喫茶店を兼ねたペットショップだ。

時期ということもあり、

『クリスマスフェア開催中!』とでかでかと書かれた垂れ幕が下がっていた。

正弘とちあは毎日、散歩がてらここで昼食を取ることが日課となっている。

今日もいつもと同じように、ゆっくりと階段を上り、店の扉を開いた。

「いらっしゃいませ」

普段とは違う、サンタ然とした格好の猫耳っ子の店員が、

しなやかな足取りで二人の前に歩み出た。

二人であることと、禁煙席を願いたいことを伝えると、店員に導かれて店内を進む。

いつもと同じように、平日の昼間でもにぎわっていることが正弘の耳にもよく感じられた。

窓際の空席に通され、防寒具を取り、席に着く。

「お決まりになりましたらお呼びください」

と店員が去ると、ちあはメニューを開いた。

「今日は何を頼みましょうか?」

ちあの問いに正弘はしばしあごに手を当てて熟考。

数分の後に、今日の気分はカルボナーラだと思い至った。

「では私はハムと卵のサンドイッチにします」

ちあが店員を呼び、注文を伝える。

カルボナーラとサンドイッチに加えて、紅茶も二人分。

この喫茶店はかわいい店員がいるということで有名になっているが、実はそれだけではない。

店側はあまり前面に押し出してはいないが、

紅茶好きにも隠れた名店として認知されつつあるのだ。

普段はコーヒーをよく飲む正弘も、ここに来たときは紅茶と決めているほどだ。

だからか、ちあは一度、この店の味を盗もうと、

猫耳っ子の店員においしい紅茶の淹れ方を聞いてみたことがある。

しかし、「企業秘密です」とにこやかに返されてしまってから、

コーヒーに加えて紅茶の研究にも余念がなくなってしまった。

この店に来て紅茶を飲むたびに、難しい顔をして何やらぶつぶつ呟いている。

残念ながら今のところ、

これもちあらしいということかと正弘を苦笑させる以外には効果は出てはいないのだが。

運ばれてきたメインをのんびりと食べ、食後の紅茶を楽しんでいると、

髪を二つくくりにしたウェイトレスがティーポットを持ってやってきた。

「紅茶のおかわりはいかがですか?」

客へのサービスを込めたサンタの衣装が恥ずかしいのか、

猫耳っ子のウェイトレスとは違い、その笑顔には多少の恥じらいが感じられる。

その表情が見えない正弘は極自然に答えた。

「それじゃあもう一杯いただこうかな」

「私もお願いします」

二人分のカップが差し出されると、

「はい、ではお注ぎいたしますね」

ウェイトレスは淹れ立ての紅茶を静かに注いだ。

二つのカップが二人の手元に戻ると、ウェイトレスが口を開く。

「お客様、もしよろしければ、食後のデザートなどいかがですか?」

紅茶のカップを口元に運ぼうとしていた正弘の右手がぴくりと一瞬震え、動きを止めた。

それを視界の隅に捉え、ちあもまたカップを持つ手を宙に静止させ、視線を正弘へと移す。

二人の動きに気づかないウェイトレスは、自然に近い営業スマイルで言葉を続ける。

「クリスマスフェア開催中は、ケーキは全品半額となっております。それと、この期間でしか味わえない限定ケーキもありますよ」

正弘は紅茶を飲まずにカップをソーサーに戻し、「ふむ……」とひとつあごを撫でると、

普段よりも幾分抑え気味なトーンで声を出した。

「なあ、ちあ……」

「ダメですよ」

間髪なしのちあの返答。

普段の明るい声のままに、

しかしいつにない早口で紡がれた言葉は明らかな拒絶の意思を孕んでいる。

「いや、まだ、何も言ってな……」

「ケーキはダメですよ」

言葉とは裏腹のにこやかな笑顔。

目の見えぬ正弘でも、その表情は想像に難くない。

恐怖さえ沸かせそうな威圧の笑顔をちあの声に感じながら、

それでも正弘は負けじと勇気を振り絞る。

「でも、たまにはちょっとデザートくらい……」

「つい先日の検診でもお医者様に言われたばかりでしょう? 糖尿病になりたくないなら我慢です」

光を失い一時は自棄に陥っても、今は未来への希望を抱く身。

極力病気は避けたいものだが、甘党の血はそうたやすくは拭えない。

どうしたら説き伏せられるかと思考を巡らせるが、

「糖尿病になったら正弘さんの大好きなコーヒーも、お砂糖と牛乳抜きになっちゃいますからね」

「はい……」

内容さえ違えば、ご機嫌としか思えないような口調での恫喝に、

正弘はただ頭を垂れるしかなかった。

降参の態度を見て取ると、ちあはウェイトレスに向き直る。

「という訳で、ケーキは遠慮いたします」

「は、はい……では、ごゆっくりどうぞ……」

目を丸くして冷や汗を垂らしていたウェイトレスが去ると、

正弘は小さくため息をついて紅茶をずずず……とすすった。

次のバレンタインフェアのチョコケーキはどうすれば食せるだろうかと考えながら。





喫茶店を出ると、二人は再び街を歩く。

窓越しには充分に暖かさを感じさせてくれた太陽は、

しかし外を歩くものには物足りない程度にしか地上を暖められないままに、

徐々に西にその身を傾けていた。

午前と変わらず、さほど人通りのない商店街。

時折車が過ぎ去るだけの通りを、今度は明確に駅へと向かう。

閑散としたロータリーを抜け、エスカレーターを上り、切符売り場へ。

そこで大人一人分の切符を購入すると、駅員のいる改札へと向かった。

ちあがまず、自分の首輪についているタグを駅員に見せる。

五センチほどの大きさの長方形のそれは、ちあが盲導犬であることを証明するものだ。

続いて正弘が切符を見せれば、「はい、どうぞ」と駅構内へ。

一番線へと階段を下り、上り電車を待つ。

壁を背にしているからか、さほど風は感じられない。

今は必要ないかと、正弘は手袋を外すとコートのポケットにしまった。

続いて、マフラーも取ろうかとした時、声をかけられた。

「園部さん、どうもこんにちは」

反射的に声の方向を向くが、正弘の目には何も映ろうはずもない。

だが、そこはちあがすかさずフォロー。

小さな声で、正弘に相手が誰なのかを教えた。

「こんにちは。こんなところで会うとは、奇遇ですね」

正弘が笑顔で挨拶を返した人物は、以前、正弘にちあを紹介した男性だ。

あれからもう何度か会っていて、ずいぶんと親しくなっている。

今日は新たな盲導犬の訓練として電車を利用していた。

その証拠に、傍らにはまだ幼さを残す犬耳っ子が立っている。

ちあとは旧知の仲なので笑顔を交し合っているが、言葉は交わさない。

これも盲導犬としての訓練の成果だ。

危険回避、または主のサポート以外には安易に声を出さないよう訓練付けられている。

厳しいようだが、これも主の目となるための盲導犬として必要なことなのだ。

二人が会話をしていると、程なくして電車がホームへと入ってきた。

まだ駅内で教えたいこともあるということで、正弘とちあだけが電車へと乗り込む。

これくらいならいいだろうかと、ちあが訓練中の犬耳っ子に小さく手を振ると、

我慢できなくなったのか、「ばいば〜い!」と大きく手を振り返されてしまった。

すかさず注意の声が飛ぶと同時に、電車は扉を閉め、ゆっくりとホームを離れ始めた。

悪いことをしたかと思う間もなく、二人の姿は後方へと流れる。

次に会えたら謝らなくちゃ、とちあは思った。





五つ目の駅で電車を乗り換えて、更に上ること六つ目。

目的の駅に着き、正弘とちあは電車を降りた。

数年前に改装され、デパートもかくやと言えるほどの様相を呈する構内を抜け、改札を出る。

駅舎を出ると、ビルが林立した、都会とはかくあるべしと示すかのような風景が広がった。

幾台ものタクシーが客を待つロータリーををぐるりと迂回し、バスの停留所へ。

すでにベンチは埋まっていたが、次のバスは何時だろうと時刻表を確認する前に、

大通りの向こうからバスが近づいてくるのが視界に入る。

バスに乗り込み、きらびやかな商店が並ぶ通りを眺めながら十五分。

バス停から更に十分ほど歩けば目的地である出版社へと辿り着く。

エレベーターで五階へ移動し、目の前の扉を開ければ、無駄に大きな声が出迎えた。

「やあやあ園部先生! お待ちしてましたよ!」

きっちりとスーツを着た恰幅のいい四十代、に見えて実はまだ三十過ぎの男性。

すでに貫禄をかもし出しながらも編集部ではまだ若手である彼が正弘の担当だ。

正弘の視力が失われた時はあっさりと身を翻したが、

復帰を願った際には尽力してくれたのも彼だ。

正弘はその場にいなかったので人づてに聞いた話だが、

正弘の復帰を拒もうとした上司に直談判したという。

その話をすると決まって「若気の至りですわ!」と笑い飛ばすが、

それからというもの、正弘が心から信頼するもののひとりとなっている。

「どうも、こんにちは」

正弘が挨拶を返すと、彼の案内で奥へと通される。

編集部の部屋の一角。

革のソファが向かい合わせに置かれ、

小さなテーブルが置かれているだけの簡素なスペースで打ち合わせは行われる。

今回は、物語が佳境に入りつつあるということで、いつにも増して熱が入っていた。

より話を盛り上げるにはどうすればいいか。

より読者を引きつけるにはどうすればいいか。

白熱した討論は時間を忘れさせ、決着がつく頃には、窓の外には宵闇が漂っていた。

「外もずいぶん暗くなってますし、車、出しましょうか?」

担当の申し出に、正弘はコートを羽織りながら答える。

「いえ、大丈夫ですよ。慣れた道ですし」

「ならいいですけどね。くれぐれも気をつけてくださいよ! たくさんのファンがいるんですから! もう先生の体は先生だけのものじゃありませんよ! はっはっは!」

「はい。それでは、失礼します」

「お疲れ様です! 次の締め切りも、よろしくお願いします!」

担当に見送られ、正弘とちあは編集部を後にした。





社屋を出て、来た道を同じ時間をかけて戻る。

太陽は完全に西に落ち、朧月が物悲しく天に浮かんでいた。

風は冷たさを増し、朝よりも厳しく感じられる。

幸い、日中の日差しで雪はだいぶ溶け去り、

陰になっていた部分を除けば歩くのに難はなくなっている。

二人は、少し急ぎ足でバス停を目指した。

いくつかの角を折れ、バス停まで後二分というところ。

最後の角を曲がろうとして、無情にも目の前をバスが通過した。

なんて間の悪いと思う間もなく、バスは目的の停留所へと身を寄せ、

数人の乗降を終えれば、正弘とちあのことなど意にも介さず発車した。

「正弘さん、バスが行ってしまいました」

ちあが沈んだ声を出す。間に合わせられなかった責任を感じているのだろう。

そんなに自分のせいにしなくても、と思いながら、正弘は軽い口調で答える。

「仕方ないさ。ならいつもの道で行こう」

「はい」

ちあは、左に曲がればバス停のある十字路を直進した。

いつもの道へと行くために。

いつもの道。

バスに乗りはぐった時にはよく使う道だ。

待ち時間とバスのルートを考えれば、この、いつもの道は確かに時間の短縮になる。

だが、それがあだになるとは、この時の二人は考えもしなかった。

そして、その時は訪れる。










バス停から三分ほど歩くと、オフィス街から側道へと抜ける。

大通りからだと回り道になってしまう駅までの道のりも、

こちらを通ればほぼ真っ直ぐで済む。

だが、側道は歩道の幅は充分に設けられ、白線こそ引かれているものの、

ガードレールや縁石はない。

この時間の交通量を考えれば、遠回りでも大通りの方が安全性は高い。

主を守る立場にいるちあは、

この道を通る時はいつにも増して油断なく周囲に気を配るようにしている。

だが、この道を通るという行為自体が慣れによる油断だと、果たして気づいているだろうか。

ましてや、今日、この日にこの道を通るという行為が、どれだけ危険なことなのかを。

「足元に注意してくださいね」

後ろを振り向かずに、ちあは言った。

「ああ、わかった」

正弘は少し硬い声で答える。

意思は、今まさにちあが言ったとおり、足元に集中していた。

ここまで歩いてきた道と違い、まだずいぶんと雪が残っている。

何段も高い位置を走っている高速道路が遮蔽物となり、

日中の太陽光が届かずに溶け残っていたのだ。

しかも、いくつもの足跡が残った状態でアイスバーンと化しているため、

凹凸が多く、歩きにくいことこの上ない。

探り探り足を着きながら、正弘はちあがいてくれることに改めて感謝の念が沸いた。

自分ひとりでは到底この道を歩けるとは思えない。

それに、普段よりも緩い歩調は自分への気遣いだろう、と。

だが、正弘がちあに対して信頼感を高める一方、

当の本人は自らの失態に奥歯をかみ締めていた。

何度か通ったことのある道。日当たりがあまりよくないのは知っていたはずだ。

ならば雪が残っているのは予測できてしかるべき。

そして、足元を気にしながらの歩みでは、余計に時間がかかる。

急がば回れとはまさにこのこと。

雪が降ったとはしゃいでいた朝の自分を恨みたくなっていた。

無論、そんなことを考えたところで現状は打破できない。

今は安全性を確保しつつ、少しでも早くここを抜けることに集中しなければ。

気ばかり焦るちあの横を、いくつものヘッドライトが無遠慮な速度で通り過ぎる。

―――いっそこんなものが存在しなければ、もっと安全に正弘さんを連れて行けるのに。

恨みがましい目を向けても、相手にとってはどこ吹く風。

年末だから忙しいんだと言いたげに、現れてはびゅんびゅんと消えていく。

―――いけない。もっとちゃんと集中しなくちゃ。

軽く頭を振り、小さく深呼吸をする。

雪の夜の冷たい空気が、高ぶりかけた心をも冷やす。

―――大丈夫。落ち着いていけば、大丈夫。

自らに言い聞かせ、一歩一歩、慎重に足を踏み出していった。





道程の八割ほどを踏破し、

大きなカーブを曲がれば駅へと続くわき道に入ることができるというところまで来た。

ゴールまではもう少し、だからこそより慎重に。

ちあは冷静に周囲に気を配りながら歩を進める。

ゆるりと左に弧を描くカーブ。

ちあと正弘がいるのは外円。

すぐ左脇には対向車が走る車道。

境目を示すのは、アスファルトの上に引かれた一本の白線のみ。

大きなトラックが向かってくるのが、ちあの視界に映った。

特に注意すべきと判断。

ちあは足を止め、かばうように車道と正弘の間に左腕を掲げる。

有名な宅配業者の社名とロゴマークが入ったトラックは、

二人に何をするでもなく、後方へと走り去った。

ちあが安心して腕を下ろそうとした時、

後続の乗用車のヘッドライトが自分たちに向いていることに気づいた。

そして、その乗用車の軌道までもが自分たちへと向いていることに。

トラックの陰になっていたせいで、歩行者がいることに気づかなかったのだろう、

逆光でかすむ視界の向こうに、運転席で驚愕の表情を浮かべる中年男性の顔が見えた。

耳障りなブレーキ音が響くよりも早く、ちあははじかれるように動いていた。










何が起こったのか、すぐには理解できなかった。

はっきりと思い出せるのは、いきなり強く胸を押されたこと。

その勢いでよろめきながら二、三歩ほど後ずさり、尻餅をついたこと。

その直後、耳鳴りが残りそうなほどに甲高い音が聞こえたこと。

甲高い音の中に、何か鈍い音が混じっていたような気がすること。

そして今認識できるのは、尻の下の冷たい雪の感触と、

前方から後方へと去っていく車の流れが止まったことと、

さっきまで確かに握っていたものがなくなっている右手。

正弘の背に悪寒が走った。

それは雪よりもなお冷たく、ぬめりと気持ちの悪い感覚。

突き動かされるように、正弘はすぐ傍にいるはずの、自分の相棒の名を呼んだ。

「ちあ……?」

返事は来ない。

「ちあ?」

二度目も、返事は来ない。

代わりとばかりに、いくつかの車のドアが開閉し、誰かが飛び出してくる気配を感じる。

複数の誰かは口々に叫んだ。

「おい! 大丈夫か!?」

「しっかりしろ!」

「早く! 救急車! 救急車呼べ!」

目が見えずとも、正弘の脳裏には鮮明に情景が浮かんだ。

その中で、自分にとって大切な人はぐったりと地面に横たわっていた。

立ち上がり、叫ぶ。

「ちあ! ちあ! どこだ!? ちあ!」

どれだけ呼んでも返事は来ない。

いつもならこれほど声を張り上げずともすぐにやってきて、

「何かご用でしょうか?」と明るい声をかけてくれるはずなのに。

「ちあ! 返事をしろ! ちあーーーー!」

この後、二人はやってきた救急車に乗せられ、病院へと向かった。

救急車の中でも、正弘はちあの名を叫び続けた。

声をからしても、鎮静剤を打たれて眠りに着くまで、何度も何度も、叫び続けた。




















三日が過ぎた。

外傷は見当たらないが一応検査をということで、病院で過ごした三日間。

その間に、事故車を運転していた男性が謝罪に来たが、正弘はよく覚えていない。

正弘にとっては賠償金がどうの治療費がどうのという話はどうでも良かった。

ただひとつのことにしか興味がなかった。

『ちあがどうなったのか』

医者の話によれば、最寄りのセンターで治療を受けているとのことだった。

すぐに会いに行きたいと言ったが、もう少し様子を見るまでは許されなかった。

しかし、それも今日で終わり。

精密検査の結果も問題なしと出ている。

正弘は退院し、その足でちあのいるセンターへと向かった。

受付の女性に案内され、ちあのいる部屋へ。

女性がノックをすると、部屋の中から「どうぞ」と声が聞こえた。

促されるままに中に入る。

「あ……」と息を飲むような声が聞こえた。

正弘が何か言おうとするよりも早く、ちあが口を開いた。

「正弘さん!」

正弘の耳に毛布をめくる音が聞こえ、

ちあがベッドを降りる気配が感じられる。

「良かった。ご無事だったのですね」

「ああ、この通り、ぴんぴんしてるよ」

正弘が笑顔を向けると、ちあは安堵のため息を漏らす。

正弘もまた、ちあの元気そうな声を聞いて安心できた。

「良かった。本当に……」

ちあの声が少しずつ近づいてくる。

だが、正弘はふと違和感を覚えた。

ちあは、いつもはさほど距離がなくとも小走りで傍に来る。

「そんなに急ぐこともないだろう?」と何度も笑ったことがあるほどだ。

その度にちあは、

「私は正弘さんの目であり、手であり、他にもたくさんお世話をするためにいるのですから、近くにいないと意味がありません」

と楽しそうに答えるのだが、

そんなちあの声が、まだ遠い。

そして何より、正弘の耳に届くちあの足音が、妙に不規則だった。

まるで、片足を引きずるような。

「ちあ! まさか、足が!?」

正弘が言うと同時、ちあの歩みが止まった。

「……はい」

答えは、沈んだ小さな声。

「ちあ!」

正弘が一歩踏み出し、右手を出す。

避けるように、ちあは一歩、身を引いた。

「ごめん、なさい……」

絞り出すような声。

その方向から、顔をうつむかせているのが正弘にもわかる。

「ごめんなさい、正弘さん。私……私、もう……」

幾許かの間を置き、ちあは顔を上げた。

「正弘さんのお手伝い、できなくなってしまいました」

がん、と何か重く硬いもので叩かれたような衝撃を正弘は感じた。

だが、正弘自身が物語の中で幾度か表現してきたような衝撃の誇張はない。

衝撃は反響することなく、まるで初めからなかったかのようにすっと消え、

代わりに、薄ら寒い闇夜に閉ざされたような冷たさを感じる。

およそ文字では表現しきれない深淵の冷気。

どうして自分がそんな感覚を得ているのかすら理解できなくなりそうなほどの混乱と絶望に立ち尽くす正弘に、

ちあは寂しそうな笑顔を向けた。

「お医者さんの話では、完治は難しいそうです。こんな足では、もう正弘さんを外にお連れすることができません。お役御免ですね」

ちあは包帯を巻かれた自分の右足に目を落とし、ふふ、と自嘲気味に笑った。

正弘はどうにか返事を返そうとするが、

「そんな、こと……」

喉はからからに渇き、かすかに紡がれた言葉は目の前にいるちあにすら届かない。

混乱する頭で文章にならない言葉をぐるぐると渦巻かせる正弘に、

ちあはケガをした足に向けていた顔を向け直した。

「でも、ちゃんと申請してくだされば、代わりの盲導犬が……」

瞬間、正弘の心を支配していた無限の闇に閃光が走った。

「ダメだ!」

気づけば、正弘は叫んでいた。

はっとして、何故、今、自分は叫んだのか、冷静に考える。

―――ちあは今なんと言った?

『申請してくだされば、代わりの盲導犬が……』

―――代わり? カワリッテ、ナンダ……?

まるで走馬灯のように、正弘の頭にちあとの思い出がめぐる。

どこに行くにもしっかりと付き従い、道を示してくれた。

何をするにもさりげなく寄り添い、健気に尽くしてくれた。

もっと立派な盲導犬になりたいと日々努力を重ね、その姿は正弘への励ましにもなっていた。

自分が立ち直り、やり直すきっかけになったちあ。

代わりなどいようはずもない。

自然と正弘の口は動いていた。

「ダメだ! 僕にはちあじゃないと、ダメなんだ!」

もう一度叫び、一歩踏み出す。

正弘から逃げるように一歩下がったちあに、正弘は抑えきれない気持ちを吐き出した。

「僕はちあが淹れるコーヒーが好きなんだ。もう他のなんて飲めない。それに紅茶だって、おいしいのを淹れてくれるって約束だったろう?」

「それは……」

申し訳なさそうに、ちあは視線を泳がせた。

正弘は続ける。

「ちあがいないと、誤字や脱字を直しきれない。仕事が終わらないよ」

「…………」

ちあはうつむき、黙り込む。

正弘は更に続ける。

「それに、健康管理もしてもらわないと、ちあが来るまではろくに栄養のバランスなんて考えたことなかったし、甘いものだって我慢しきれる自信がないよ」

返事は来ない。正弘は更に続けようとして、

「それに、それに……」

感情だけがとめどなく湧き出し、うまく言葉にならない。

言いたいことは山ほどあるだろうに、文章の形にならない。

それが悔しくて、悲しくて、

こらえきれなくなった涙を一滴、頬に流しながら、

もう一度、「それに……」とだけ言って、口を閉じた。

二人の間に沈黙が訪れる。

溢れる感情に、時間の感覚などとうに薄れた正弘には、何秒とも何十秒ともつかぬ時間が経過し、

唐突に耳に入ってきた、ちあの声で現実に引き戻された。

「正弘さん、ダメですよ」

何度も聞いたちあの言葉。

だが今回は違う。

むっとした顔での注意の言葉でもなければ、本気で起こった時の笑顔の脅迫でもない。

まるで聞き分けのない子供を諭す母親のような、優しく、温かみのある言葉だ。

「正弘さんだって大人なんですから、そんな子供みたいなこと言ったらダメです」

ちあの声が、一歩近づく。

「正弘さんもコーヒーや紅茶くらい淹れられますし、担当さんと力を合わせれば、ちゃんとお仕事もできます」

更に一歩。

傷ついた足を引きずり、ちあは正弘に近寄る。

「それに、甘いものだって、我慢できますよ。私の知ってる正弘さんは、そんな弱い人ではありませんから」

最後の一歩。

「だから、大丈夫です」

ちあは正弘の目の前に来ると、右手を高く持ち上げ、

自分よりも高い位置にある正弘の頭を優しく撫でた。

突然のことに正弘は面食らう。

何か事を成した時にちあの頭を撫でてあげたことはあったが、

自分が撫でられる側になるとは思ってもみなかったからだ。

だが、その優しく温かい手は、正弘の心までをも優しく温め、落ち着きを取り戻させる。

正弘はしばらくされるがままとなり、

名残惜しそうに離された手のひらに、正弘もまた名残惜しさを感じながら、

静かな言葉をちあへと送る。

「ちあ、ずるいよ。こんなことされたら、反論できない」

少しすねたような声に、ちあはふふ、と楽しげな笑みをこぼして、

「ごめんなさい。でも、私は正弘さんを信じていますから」

いつもの自然な明るい声で答えた。

「ちあ……」

正弘は思う。

―――勝てないな……

いつもそうだった。

正弘の意見を尊重しつつも、ここぞという場面では絶対に引くことはしなかった。

ゆるぎない信念と強さを持っている。

だからこそ正弘は心打たれ、心を許し、心引かれた。

ちあの意思は変わらない。

ならば、正弘にできることは一つだけ。

「ああ、わかった。そうまで言われたら、もう観念するしかない」

正弘は肩の力を抜き、大きく息を吸い、吐いた。

決意が固まる。

光なき目でまっすぐにちあを見つめ、最後の言葉を送る。

「ちあ、今までありがとう。僕のために、本当によく頑張ってくれた。これからはゆっくりと休んでくれ」

正弘の言葉をまっすぐに受け止め、ちあは笑顔のままに返答する。

「こちらこそ、お世話になりました。これからはひとりのファンとして、正弘さんの作品を楽しみにさせていただきますね」

「うん、面白い話にするから、期待して待っててくれよ」

「はい」

「それじゃあ、お疲れ様」

「はい、お疲れ様でした」

正弘は扉のところで待機していた女性に面会終了の旨を伝えると、ちあに背を向け、部屋を出た。

ちあは扉が閉まりきるまで、正弘を笑顔で見送っていた。















正弘が去ってから数分と経たず、すすり泣きの声がちあの部屋を満たした。

その声を聞いたものは、誰もいない。




















数ヶ月が経ち、

ある都市の中ほどにたたずむ巨大なビルの街頭テレビに、今日のニュースが流れ始めた。

ベテランの雰囲気を纏う女性キャスターは、滑らかな口調で原稿を読み上げる。

『お昼のニュースです。身をていして主人を交通事故から守った盲導犬が、その功績を称えられ、表彰されました』

画面は切り替わり、表彰式の様子が映し出された。

治ることのない右足を引きずりながらも、

赤いカーペットが敷かれた廊下を、主を導いて堂々と歩く盲導犬の姿があった。

『この盲導犬は、向かってくる乗用車に自ら飛び込み、主人の命を救ったとのことです。この事件で盲導犬の意義が見直され、盲導犬をもっと広く世の中に認めてもらおうという動きが開始されているようです』

画面の中の表情は、実に晴れやかな笑顔。

文字通り、幸せを体現していた。

VTRは盲導犬の笑顔のアップで締めくくられ、画面は戻った。

『続きまして……』

キャスターは朗々と原稿を読み進める。

盲導犬の話に戻ることはない。

だが、雑踏を行く人たちがろくに見向きもしなくとも、

誰の記憶に残ることがなくとも、

その盲導犬にとって一番の幸せは、再び主を伴って歩けたこと。

その一瞬が、何よりの表彰だったことだろう。










同じ頃、郊外に静かにたたずむ白亜の建物。

広い敷地を有するその建物から、ひとりの犬耳っ子が松葉杖をつきながら出てきた。

慣れた足取りで階段を下り、庭を横切りまっすぐに門へ続く道を進む。

日はすでに高々と昇り、初夏の暖かな日差しを地上へと降らせている。

その眩しささえ感じさせる日の光の下を、犬耳っ子は歩く。

何かとても楽しいことが待っているかのような、期待に満ちた眩しい笑顔で。

門に着くと、後ろをちらりと見てからそっと門を横に引く。

人ひとりが通れるほどの幅だけ開くと、犬耳っ子は心の中だけでごめんなさいと謝り、

一歩だけ外に出た。

本来は一歩だけでも無許可で門の外に出ることは許されない。

でも、月に一度のこの日だけは。

犬耳っ子は、長く続く通りの向こうへと視線を送った。

閑散としており、人の気配はまったく感じられない。

それでも犬耳っ子はその姿勢のまま視線を送り続ける。

数分が経過し、向こうの通りから曲がってくる二人の人影を見つけた。

犬耳っ子の顔が、なおまばゆく輝いた。

二人はゆっくりとこちらへと向かってくる。

ひとりは小柄な犬耳っ子。

無邪気さの残る元気な顔のすぐ下には、首輪に付いたタグがきらりと輝いている。

そのすぐ後ろには、ハーネスを握る男性。

落ち着いた表情で、迷わず歩を進めている。

門前で待つ犬耳っ子は、右手に持っていた松葉杖を門に立てかけると、大きく手を振った。

釣られ、小柄な犬耳っ子が大きく手を振り返す。

全身を振るようなその動きに揺さぶられ、後ろの男性が体をよろめかせた。

小柄な犬耳っ子があわてて支えようとする様を、目を丸くしながら眺める。

どうにか体勢を整えて再びこちらへと歩いてくる二人を見て、

松葉杖の犬耳っ子はいっそう笑みを深めた。

「こらー! 正弘さんに迷惑かけちゃダメでしょー!」

「わー! ごめんなさーい!」

「この子も一生懸命頑張ってるから、あんまり怒るなよ。ちあ」

みな、それぞれに幸福に満ちた笑顔だった。










 Fin










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<あとがき>
ど〜もご機嫌ようです!
以前からず〜〜〜〜〜〜〜っと書こう書こうと思っていながらなかなか書き出せずにいた
『ぴゅあぴゅあ外伝 ある耳っ子の物語 その3 盲導犬編』
いかがでしたでしょうか?
書こうと思い始めた日から、間違いなく数ヶ月は経ってからの書き出しです。
あっためすぎにも程があります。
スロースターターなんて言い訳も通用しないですね♪
でもどうにか書き上げることはできたんで、良しとしましょう♪ しました♪

さて、今回なんでこのような話を書いたかといいますと……
もしかしたらお気付きの方もいるかもしれません。
この話は、事実を元に作られています。
色々と脚色したり、うろ覚えの部分もありますが、
『主人を守ろうとして乗用車に突っ込んだ盲導犬がいて、その功績が表彰された』
という部分に関しては本当にあった出来事です。
おまけで言うなら、盲導犬は主人をかばって命を投げ出すような訓練はされていないとのことです。
それでもなお事実は事実なのです。
それを某動物番組で見て、
打ち震えるほどの感動を少しでも誰かにお伝えしたいと思ってこの話を書きました。
自分程度の文章でその感動がどれほど表現しきれたか自信はまったくありませんが、
それでも少しでも知ってもらえたらと思います。
結果的にその盲導犬は右前足を失い、引退することとなったのですが、
表彰式でご主人を引いて歩く姿は、見ていて涙が出そうでした。
例え種族は違っていても、絆というのはここまで深くなるものなのだなと気づかせてくれるお話でした。

その時の感動を思い出しながらこのあとがきを書いておりますが、
背後でうちの飼い猫が障子をばりばりやっている音が聞こえてたりします。
お前もちっとはこの盲導犬を見習って立派になれよバカ猫!
と言ってやりたい気持ちもありますが、バカな子ほどかわいいと言いますか、
うちの家族全員に甘やかされまくっているのできっとうちの猫はバカなままでしょう。
まあいいか、かわいいから。

以上、人のこと言えないくらい甘やかしまくってるMでした♪
でわでわ〜♪

※ちあと後任の犬耳っ子の雰囲気が、どことなくさちとひなたに似ている気がしないでもないですが、気のせいです。本当に気のせいです。
何故なら書きあがってから「あれ? なんか、ぽくねぇ?」とか思い始めたからです……orz
気にしたら負け!

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